第ニ百三十話 上杉との約束な件

「へへ……へへへへ」


 男は包丁の先を兵藤に向け、正気の沙汰ではない笑顔を浮かべていた。


「死ねや鮫……。全身をこの包丁でブッ刺してやるよ。何度も、何度もなァァァァ!!」


 男はまたしても兵藤に向かって突進して来た。


 ――ズキッ!!


 兵藤の右足に激痛が走り、反応が遅れた。


「チッ……」


 兵藤は倒れ込むように身体を逃し、何とかその突進を避けたが、すぐ男が馬乗り状態を取ってきた。


「へへへへへ……」


 男は包丁の先を兵藤の胸元へ向け、ゆっくりと下ろし始めた。


 ――ドン!!!


 兵藤は諦めて瞑っていた目を開けた。先程まで自分の上にまたがっていた男は、一瞬宙に浮いていた。


 ――カラン!!!


 男の握っていた包丁が落ちる音がした。


「兵藤君、急いでその包丁を回収して下さい!!」


 聞き慣れた声が兵藤の耳に入った。

 兵藤は予想外の展開に、少し膠着しかけた。しかしすぐ防衛本能が働き、急いで包丁を拾った。


「なんでアンタがここにいるんだよ、監督」


「話は後です」


 上杉は襲いかかって来た男の服を掴み、そのまま大外刈りを決めた。そして倒れた男の上に素早く倒れ込み、即座に関節技を決めた。


「今なら警察に通報しないであげます。二度と彼の前に現れないでください。これは貴方への最後通告です」


 普段ヘラヘラしている上杉監督の目がギロリと男を捉えていた。初めて見る彼の鋭い眼光に、兵藤ですら背筋が凍っていた。


「わかった……わかったから!! 腕が折れるから早く離してくれ!!」


 上杉監督は男から身体を解いた。そして男の肩をグッと自分の方へ引き寄せた。


「次同じ真似したら……全身の骨を砕ききりますからね?」


「ひっヒィ……!!」


 男は上杉監督から離れた瞬間、猛ダッシュでその場から逃げ出した。


「アンタでも恐喝みたいなことするんだな」


「ふふ……ギャップ萌え、感じちゃいましたか?」


「死ね」


 兵藤は緊張が解れたからか、地面に座り込んだ。


「で、話を戻すけどよ。なんでアンタがここにいるんだよ」


「そりゃあ、顧問として不良行為をしている生徒は見逃せませんからねぇ」


「……」


 兵藤は黙り込んだ。


「兵藤君、約束と違いませんか?」


「今のバイト先はアングラじゃねーだろ。むしろセキュリティは日本一安全だろ。政界、業界のVIPばかりが客だからな」


「でも貴方は現に今、帰り道を襲われたじゃないですか」


 上杉監督の適切なツッコミに、兵藤は返す言葉が見つからないようだ。


「困るんですよ。禁止している賭博行為を行って、それで奇襲されて、その右足みたいに怪我をされては」


 兵藤は何も返さなかった。


「隠しても無駄です。心理状態は隠せても、痛みは隠せませんよ」


「チッ……アンタ監督業なんかやめて、こっちの世界にこいよ。その観察眼があれば十分食っていけるよ」


「とりあえず明日から病院に行ってください。次私に黙ってギャンブルをしていたら……」


「わかったよ。だからその眼は止めてくれ」


 兵藤は観念したかのように、両手を広げた。

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