第百六十七話 チャンスを投資に回す件
守は汗を流しながら、駄覇の出したサインに静かに頷いた。
少しばかり緊張しているためか、指先が気になり、ロジンパックに手を触れた。
ロジンから出る粉が、白い煙のようにマウンド上に舞う。彼女は指先いっぱいにまぶした粉にフッと息をかけた。
ふと視線を感じ、ネクストバッターサークルに目を移すと、神崎が強い眼差しで守を見つめていた。
場面は九回表、ツーアウトランナー無し。明来は四点のリードをしっかりキープしている。
八回にシングルヒットを一本だけ許すも、それ以外のバッターは完璧に抑えていた。
守個人的な感情とすれば、もう一度神崎と対戦したい気持ちはある。ただ駄覇は三番バッターで打ち取る気満々だった。
先ほどベンチで発した駄覇の言葉が、いまだに守の耳に残っていた。
――「九回、三人で抑えられれば、四番神崎サンと勝負せずに済むんでチャチャっと押さえましょ」
「……うん、そうだね!」
守の返答に、駄覇は首を傾げた。
「ん? 何すか千河サン。何か引っかかる感じ?」
「いや、勝つ為にはそれが一番だしね!」
「――神崎サンと勝負したいんスか?」
駄覇の確信をつく一言に、守は静かに頷いた。
「……うん。こんなチャンスは滅多にないから」
「練習試合だし、良いバッターと一度でも多く対戦したい……と」
駄覇は腕を組み、守の意図を言葉にした。
「勝敗も勿論大事だけどダメ……かな? 点差も多少余裕あるし」
「はぁ〜っ……」
駄覇はため息をついた。、
「千河サン。聞きたいんスけど、千河サンの目標はなに?」
「勿論甲子園に出て、それで優勝することだよ! 当たり前じゃん」
守は即答した。
「そうスよね。じゃあその為には同地区の皇帝学園とは、ほぼ必ずどこかで当たるスよね。ガチメンのコイツらに勝つ必要あるスよね」
「そうだね。だからこそ打たれてもリスクのない練習試合で少しでも経験値を……」
「甘ェ!!」
突然、駄覇はボリュームを五段回くらい上げた。
「甘ェよその考え方! この試合、神崎サンには嫌な手答えのままで終わって貰うんだよ! 夏大で勝つ為に!!」
「……どういうこと?」
「神崎サンは今日ノーヒット! しかも内容も悪りィ! 仮に最後に打たれて、アイツを気持ちよくさせて何のメリットがある!!」
言葉遣いは悪いが、駄覇の言っていることは最もであった。
「今日ノーヒットで終われば、そのモヤモヤした感情を持ったまま公式戦に入る! そして俺たちとの対戦の時、イヤでも今日のことを思い出す!」
「た……たしかに」
守はオドオドしながら答えた。
「仮にホームランでも打たれてみなよ。俺はいつでも千河ヒカルを打てるって心構えでぶつかってくるぜ? だからこそ、今日は手答え無しのままゲームを終わらせる必要がある」
守は黙って話を聞いていた。
「練習試合の対戦チャンスは投資に回せ。それが公式戦を有利に戦えるという利益を生む」――
守は強く腕を振り抜いた。
ただボールは彼女の力強いフォームとは裏腹に、打者の手元でブレーキがかかり、沈んでいく。
――キィィッ!!!
「山神!!!」
力ない打球が、ショート山神の前に転がっている。
一般レベルのショートなら、打球が弱い為内野安打のリスクもあり、最後までハラハラする。
しかし山神の守備は、そこに打たれただけで安心してしまうほどに、チームメイトから絶大な信頼を得ていた。
山神は素早く打球に回り込み、そして流れるように一塁へスローイングした。
「アウト!!!」
一塁塁審の声がグラウンド全体に響き渡る。
守はその場で雄叫びをあげた。
試合終了
皇帝 ゼロ対四 明来
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます