その3 それは信仰にも似た愛の話
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夜の廃墟を包む暗闇と、見分けがつかない内装の建物だった。
都心から程近いオフィスビル。外見上は特に変わった様子のないビルだったはずなのに。外から見えた窓ガラスはハリボテだったのか。一歩足を踏み入れた途端、自分の手を視認することも難しくなるくらいに暗闇が広がっている。
連れられてやってきた幸の薄そうな顔つきの男は、恐る恐る足を踏み出した。ぎゅむ、という感触が靴の裏から男の足を駆けあがっていく。男の口から、思わず情けない声が漏れた。
「あー、床にいろいろ散らかってるけど、踏んじゃダメなものは机に置いてあるから。あまり気にせず歩いてくれていいよ」
このビルまでの案内人を務めた国立病院の院長が、軽い声で言う。その後ろをついて歩きながら、もう少し早くいってほしかったと心の中だけで思った。視線を足元に戻せば、そこに何かがあることくらいはわかるようになっている。暗闇に目が慣れてきたようだった。
不気味な暗闇の中に、乱雑に机が置かれているのがかろうじて見える。
男は、ここに足を踏み入れたことを若干後悔していた。彼は基本的に善人であったし、大体の事項において平均的な凡人だったから。こんな非日常的な暗闇とは本来縁がない。
それでも、彼はここに来なくてはならない理由があった。
それはもちろん、妻のために。
「さて、ここまでご足労いただきありがとう。そこに座って」
そこ、と言われても見えにくい。男が必死に目を凝らすと、乱雑に並ぶ机の前にパイプ椅子がぽつんと置かれていた。
きっとこれのことだろう。そう解釈した男がパイプ椅子に座る。就職活動の面接みたいな緊張を覚えていた。ごくりと息を飲む。
国立病院の院長の声が響く。
「それじゃあ話をしようか。君の妻、佐藤桜を救う唯一の方法・マゴンというゲームの詳細について」
「お願いします」
男の声は震えていた。
「まずは自己紹介をしておこう」
院長は言って、片側の前髪をかきあげた。
「この顔に、見覚えはございませんか?」
男の声音が明らかに変わった。次郎は目を凝らしてピエロと名乗った男を見つめるが、すぐに首を横に振る。
「ありませんけど……」
暗い視界の中での判断だったが、次郎に迷いはなかった。営業部の中でも、人の顔を覚えるのが早いことで評判の次郎である。
「えぇっ、ないの!? ……ごほん。もしかして、あの電波ジャックの映像を見たことがないタイプなのかな、あなたは」
男は焦っているのか驚いているのか、話せば話すほど口調が変化していく。それを奇怪な美術品でも見るかのように眺めながら、次郎は謝罪を口にした。
「あー、えっと、すみません」
「なんだ、じゃあ本当に奥さんの命を助けるために参加しようとしてるってこと? はー、びっくりした。びっくりして口調もめちゃくちゃになっちゃった」
雰囲気作りも要らないかあと独り言のように呟いて、男が指をパチンと鳴らす。それを合図に部屋の照明が一斉に点いた。眩しさのあまり次郎は目を覆ったが、男はお構いなしに話し始める。
「じゃあもう好きにしゃべっちゃうけど。えっとー、僕はあの8年? くらい前の電波ジャックのときからこのサバイバルゲエムの広報活動担当しているピエロです。よろしくぅー。もちろん本名ではないけど、別にそれはあなたは知らなくていいことだから」
「は、はあ……。病院の院長ではないんですか?」
「院長だよ。医師免許は偽物だけど」
次郎は目を見開いた。明るさに慣れてきたばかりの両目が、悲鳴を上げる。
「犯罪じゃないのかって? うーん、知っておいて欲しいのは、このゲエム——君たちのいうところのマゴン——を運営する管理局はこの国の法律や政治に干渉しているってこと。わかる? それはつまり、ズルができるってことだ」
コツコツと男の革靴が音を立てる。
「だから、例えば医師免許を持っていない未成年を国立病院の院長として送り込むくらいのことは、簡単にできちゃうみたいなんだよねえ」
ピエロと名乗った男の話では物事の核心にで触れられていないのに、次郎は背に汗が伝うのを感じた。自分が何か「ヤバいこと」に首を突っ込んでいるのではないか、そんな不安がいまさら膨れ上がっていく。
「もういいでしょ。舞台背景ばかり見てないで、あなたがこれから参加するゲエムの話をしよう」
おそらく、ここで男のいう「舞台背景」に意識が向かうのは何も不自然なことではなくて。自分が首だか足だかを突っ込もうとしている世界を「どうでもいいこと」と切り捨てられる人間はそう多くは居ないだろう。
だがしかし、佐藤次郎は重度と言われるほどの愛妻家。彼の行動理由は、妻が絡むとひどく明白になる。それが、平凡な男の唯一平凡ではない部分だ。
「そう……、そうですね。教えてください。本当に妻を救えるんですよね?」
「あなたの頑張りしだいでね。
ゲエムのルールは単純。決められたエリア内で、各所に置かれている札束を集めながら生き残りを目指すだけ。制限時間があるから、タイムリミットを迎えた時点で持っているお金はその人のもの……。といっても、あなたはお金目当てじゃないんだっけ?」
ピエロが心底つまらなさそうな声で次郎に問いかける。見下しているような口調だった。
「その、能力について、お聞きしてもいいですか」
「いいけどさあ……。まあいいや。能力についてね。僕たちはクオリアって呼んでる。
ゲエムの参加者には僕から#能力__クオリア__#をプレゼントすることになってるの。どんな能力になるかは僕もあげてみるまでわからない。その能力の使い方をレクチャーしたうえで、ゲエムに参加してもらうってわけ。
ゲエムに参加する前に能力を使ってもらうのはNG。暴発したら責任取れないし。でも、生き残った後は日常でも自由に使っていいよ。何かあったとしても国から保護してもらえるようになってるから」
ゲエムに生き残った人の特権ってやつだね、と言って説明は途切れた。
能力、国、保護。日常生活とはかけ離れた言葉が脳裏で踊っている。それでも、次郎が気にするのは一点のみだった。
「どんな能力になるかわからないって、あのっ、私はそれでは困るんです! 妻を……、救える能力でないと……!」
まるで神にでも祈るような、悪魔にでも縋るような心地で次郎が乞う。ピエロはやはりつまらなさそうな声で返した。顔にだけ笑顔が張り付いている。
「もらう側の願いがある程度反映されるからそれは大丈夫。能力付与の準備をするから、願うことでも考えて待ってて」
ピエロが奥の部屋へと消えた。
何故か機嫌の悪そうなピエロを見送って、次郎はもう決まっている願いを胸中で反芻した。
数分後。
「おまたせ~」
次郎のもとに戻ってきたピエロが、やけに弾んだ声を上げる。さっきまでの不機嫌さが気のせいだったのかと思うほど、表情に合った声音。しかし、次郎はその変化に気付くよりも前に、部屋に増えた人影に目が行った。
ピエロが一人の少女と手をつないでいる。少女は修道女のような服装をしていた。
「あ……、こんにちは?」
「…………こんにちは。えっと……、あなたが、佐藤次郎さん」
「そう、ですけど……。あなたは?」
「わたしも……、この人と同じ、あのゲームの運営局……の、ひとり」
「運営局……」
少女はピエロを指さしている。次郎にとって、運営局という言葉は初めて耳にした言葉だったが、うすうす感じていたことだった。
「そう……。ゲームの……参加者を、集めたりとか……。そういうことを……してるの」
少女はうとうとと船をこぎながら、一つ一つの言葉をゆっくりと紡ぐ。聞いている方も話している方も、今にも眠ってしまいそうだ。
そんな少女に、ピエロは椅子を差し出しながら誤った。
「眠いよね、ついてきてもらっちゃってごめんね~。ささっと能力授与終わらせよう」
「わたしがいないと……、できないんだし。しかたない、でしょ……」
少女の口からふわりと小さいあくびが一つ。見かけ通り、睡魔と戦っているらしい。
さっきから状況に置いてけぼりにされ続けている次郎は、ようやく始まるのかと背筋をただした。
それにしても、少女がいないと能力付与ができないというのはどういうことだろうか。彼女が何かする素振りは見えない。さっきと人が変わったように質の違う笑顔を見せる青年も気になるが……。次郎は思考を巡らせる。数分の沈黙の後、ピエロの声がそれを遮った。
「あ、じゃあ始めるね。願いがあるなら念じてて」
ピエロが次郎の額に手をかざす。
手のひらと額の間で、まばゆい光の玉が弾けた。次郎とピエロの足元に、複雑な魔法陣が生成される。
「っ!?」
「動かないで、念じ続けて。目は瞑っててもいいから」
次郎は一瞬ひるんだが、言われたとおりに制止した。
目を閉じていても光っているのがはっきりとわかる。光は徐々に熱を帯びていく。
その弾ける光の玉が、ふいっと次郎の額を離れた。
ふわりふわりとホタルのように舞うそれが、さまざまな色に変化しながら次郎の周りを回転する。何かを見定めているかのような飛び方だった。
赤、緑、黄色、青、紫……。
点滅する度に変わる光の色は、白色になって——。
やがて、その光は次郎の左手に吸い込まれるように、消えた。
「……?」
「本当なんだ。へえ、すごいね」
「……ね? 言った、でしょ」
「うん、さすがレイナ。ちょっとこの人のこと見直したよ。佐藤さん、もう動いていいよ」
ピエロに言われて、ようやく次郎は目を開けた。指輪がはまっている左手の薬指がやけに暖かい。ただ、何か特別なものを得たという実感は、次郎にはなかった。
「あの、これはどういう……?」
「能力付与は成功したよ。暖かいんじゃない? そこに、能力が宿ってる」
「左手の薬指……?」
「能力って体の部位か物に宿って、それに関係のある力になるんだよね」
「ってことはつまり……」
次郎は問う。ピエロは笑みを深くした。
「奥さんを治せるような能力なんじゃない? だって、そこに宿ったんだし」
「愛の結晶、みたい……だね」と、少女が小さく微笑んでいる。
次郎はまだ実感のないままで、それでも目的に向けて一歩進んだ気がして、両手を強く握りしめた。
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