その1 愛する妻を救う道


  ○


「そんな……、そんなわけ……」

「……心中お察しいたします」

 国立の総合病院。その診察室にいる二人の人間を重苦しい空気が包んでいた。

 狼狽する背広姿の男・佐藤次郎に、医師は言葉を選びながら、それでもはっきりと言う。

「もう一度言います。佐藤桜さんの余命は、現状、もって数週間というところです」




 佐藤次郎はとある中小企業に勤めるサラリーマンだ。今年で三六歳になる。一般男性の平均値よりは少しだけ高めの身長と、それなりにガタイのいい体つき。それらの頼もしい要素を打ち消すような幸の薄そうな顔が特徴的、というのが彼の外見についての評判だった。


 高校生の頃は野球に打ち込んでいたのもあって、運動神経はいい方だけれど、秀でたところはそれくらい。ちょっと探せばどこにでもいそうな平均的な人間である。


 しかし、そんな次郎の「ちょっと普通じゃない部分」を探すとしたら、誰もが口をそろえてこう言うだろう。




 彼は極度の愛妻家だ。

 あるいは「重度の」といってもいい。




 佐藤次郎は妻・佐藤桜を心の底から愛している。

 別にそれはおかしなことではないはずだ。だから、次郎自身は「普通じゃない」と言われるのにいい気はしていなかった。愛があるのは事実だから、好き勝手言わせておけばいい。



 そんな彼だから、桜が倒れたと聞いたときには迷わず病院へ走った。ちょうど取引先への訪問を一つ終えて、オフィスを出た直後のことだ。


 本当はその後もう一件アポイントが入っていたけれど、それにはタクシーの中で謝罪の連絡を入れた。事情を説明するなり病院を優先するよう促されたのは、次郎の人の好さと、重度の愛妻家だと周知されているのが理由だろう。



「桜っ……!」


 病室で桜の姿を見て、次郎は血の温度が感じられなくなった彼女の手を握った。


 桜の顔には、ドラマで見るような呼吸器が付けられている。腕には点滴の針が刺さっていた。医療知識に疎い次郎には、桜の病状について詳しいことはわからない。ただ、ピッピッと鳴る電子音と規則的に動く心電図だけが、彼女がまだ生きていることを知らせている。


 機械音の発生源と、ベッドに横たわる桜の姿、それから点滴。次郎はそれらを呆然と見つめていた。



「佐藤桜さんのご家族の方ですか?」

 視線の定まらない次郎の耳に、男の声が届く。落ち着いた声だった。



「佐藤桜の、夫です」

「旦那さまでしたか。私は桜さんの担当になった栄田(さかえだ)と申します」


 白衣を着た男が、胸元の名札を指しながら名乗る。男が軽く頭を下げたので、次郎も会釈を返した。

 神妙な顔をして栄田が続ける。

「お話したいことがございます。診察室まで来ていただけますか?」




 そして話の舞台は国立病院の診察室へ。

「佐藤桜さんの余命は、もって数週間というところです」


 診察室で次郎に告げられたのは、最愛の妻の余命だった。何か大きな病気らしい。医師の詳しい説明があったが、次郎の頭には入っていなかった。治療がほとんど不困難だということと、数週間という短い余命だけが嫌なくらい理解できて、言葉が詰まる。


 今朝、それぞれの仕事に行くため一緒に家を出たことが、遠い昔のことのような気がしていた。

 次郎の脳裏にこれまでの桜との思い出が浮かんでは消える。突然の宣告に頭がパニックになっているのかもしれない。今にも目の前の医師を責め立ててしまいそうだった。彼は何も、悪くないのに。




「あ、の」

「……どうかしましたか」

「なんとか、ならないんでしょうか」

 やっとの思いで吐き出した言葉は懇願だった。桜を死なせたくない、死んでほしくない、そんな思いが堰を切ったようにあふれ出す。




「なんでもいいです、どんなにお金のかかる手術でもいい。お金は必ずどうにかします。だからどうか彼女の病気を治してください。必要なら僕は何でもします。妻は……、桜は、僕の希望なんです。彼女がし、死んでしまう、なんて、考えられない……。お願いします、なんでも、なんでもします。だから……」



 診察室に、次郎の声だけが響く。こちらを見つめるだけで何も言わない医師に気付いた次郎は、うつむいて下唇を噛んだ。力を込めすぎて血の引いた握りこぶしが冷たい、のに、さっき握った桜の手よりも熱がある。それだけのことさえ次郎の絶望を深める要因になっていた。





「佐藤さん、」

 長い沈黙を、医師の言葉が破った。



「桜さんを救う方法が、一つだけあります」

 一拍遅れて医師の言葉の意味を理解して、次郎は勢いよく顔をあげる。

 医師の顔はまだ暗いままだった。


「あなた彼女のために何でもできるというのなら、とあるゲームの参加権をお渡しすることができます」

「……え、? はい……?」

 続いた言葉を、次郎は何拍おいても理解できなかった。医療の現場に似つかわしくなさそうな虚構めいた言葉が滑るように耳に入っただけだ。




「あなたも聞いたことくらいはあるでしょう。参加賞として異能力を得られるゲームの話を」

「それは……」

「あのゲームには奇跡を起こせる魔法使いが絡んでいるという話もあります。ゲームに参加して、他者の病気を治す能力を得れば、桜さんの病気を治せるかもしれない」

 次郎の脳裏は混乱を極めていた。八年前に世界規模で話題になったそのゲーム話については、おそらくこの国に住む誰もが知っているだろうものだ。当然、次郎も聞いたことがある。





 異能力を使って殺し合うという賞金を懸けたゲームの話。八年前、この国の電波をジャックして生放送で広められたこの催しは、どこかのネット民たちにとってデスゲーム(マゴン)と名付けられた。電波ジャック放送以後も不定期に開催されている、らしい。


 参加者の募集も実施の告知もされないのに、時折ゲーム中の様子を収めた動画が投稿されるのだ。


 動画が投稿されているといっても、この国に住む大多数の人間にとって、デスゲーム(マゴン)は都市伝説のようなもの。加工と編集で作られた嘘の企画だと考えている人の方が圧倒的に多い。


 動画では人が死ぬシーンが編集でカットされているし、おそらくフィクションなのだろう。そうみれば、映画みたいで面白いと好評のようだった。複数の男女を同じ空間に集めて恋路を見守るような番組と、同じ扱いだと言える。






 ただ、ネット動画をあまり見ない次郎にとって、デスゲーム(マゴン)の話はなじみ深いものではない。それに話には聞いたことがあれど、命を懸けたデスゲームに好意的な印象を持っていないというのが彼の本音である。


「ついこの前投稿された動画を見ましたか?」

「い、いえ……、この前どころか一度も見たことがなくて」

「それは……、珍しいですね? ええとですね、そこに、自分の傷を癒す能力を持った人が出ていまして」



 悪い冗談なのだろうか、こんなタイミングで? そうも思ったが、医師の口ぶりは真面目そのものだ。



「現代の医療技術では、桜さんを治療することができません。数日しかない余命を、数週間に伸ばすのが精一杯です。桜さんを救うためにはこの方法しかないでしょう」


 医師が言葉を繰り返す。


「あなたが彼女のために何でもするというのなら、詳しい話をお話しすることができます」



「……よく、わかっていないんですが……。それで桜を救えるんですね?」


「そうです。あなたの頑張り次第にはなりますが」

「わかりました」


 そう言った次郎の腹は決まっていた。医師の言葉の半分も理解できていないものの、妻の命を救うための方法が一つしかないのなら、リスクを負ってでもそれに賭ける。佐藤次郎はそういう男だった。




 医師は頷くと、口角を上げて内線電話を手に取った。




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