Third

 これまでの周期でいくと、そろそろジョージがここに来る時期だ。今日か明日かと、自然に頬が緩む。生意気でおしゃべりな流れ星。いつかは青い星になる彼を宇宙へと送り出す日が来るのだろうけど、それまではせめてジョージとのおしゃべりを目一杯楽しみたい。

 ジョージと初めて会話をしてから、何度か他の流れ星にも話しかけてみた。今のところ、何か反応が返ってきたことはない。最初から期待なんてしていないつもりだけど、毎度ほんの少しだけ落ち込む。そうして、ある日突然、ジョージと会話ができなくなることをつい考えてしまう。そんな日が来たとしても、私は、せいぜいここで流れ星の傷を治すことしか出来ない。

 予想していた通り、数日後にジョージが来た。

「おかえり」

「ただいま。さっき、危うく人工衛星と正面からぶつかるところだったよ。初めて近くで見たけど、以外とスピード出てるんだね。もちろん、避けれるよ。でも、僕はあれ苦手だなあ。危ないよ絶対」

 早速まくし立てるジョージに、「普通、流れ星はその軌道を一瞬横切るだけだから、きちんとタイミングをみていれば事故は起きないんだよ」と説明してやる。むしろ、なんで君は軌道を逆走しているんだ。

 ジョージが来るだけで、人気のないこの惑星は一気に騒々しくなる。いつも通りジョージを机の上に置き、傷の具合を診ていく。きちんと返事が返ってきたことに、内心胸をなでおろした。

 そして、話は自然とチェロ弾きのことへと移っていく。

「妻のニーナってどんな人なんだ?」

「笑顔の素敵な人だよ。仲よさそうにティムとひまわり畑で腕を組んだ写真が部屋に飾ってあった」

 ジョージは、人が話しているのを聞いただけだけど、と前置きを挟んで続ける。

「ニーナはカメラマンだったんだ」

 彼女もまた、ティムのように売れっ子だった。有名なファッションショーから秘境と呼ばれるような場所に眠る美しい自然まで、毎日のように撮影の依頼が舞い込んでいた。

「夫婦そろって忙しかったのか」

「そう。それで二人が家にそろう日くらいは、きちんと話をしようってコーヒーを用意したのがなんとなく習慣になって、ティムは一人になってからも続けてる」

 ティムのコンサートツアーに帯同していたヘアメイクスタッフの口癖のものまね。ニーナが食べたどこかの国の民族料理。新しくリビングの壁に塗るペンキの色。その日の夕飯の献立。

 なかなか会えなくても、すれ違わないように。些細なことでも、きちんとお互いに向き合って話ができるように。そんな風に決めていたのに、ニーナは自分の病気のことも、命のタイムリミットが近いことも、大事なことは限界までティムに伝えなかった。

 ティムが病気のことを知らされたのは、ニーナが病院のベッドから動くことすらままならなくなってからだった。


 病室のドアを開けると、ニーナはベッドに起き上がって本を読んでいた。こちらに気付いて顔をあげると、深く息を吸い込んだ。

「コーヒーの匂いがする」

「少し早く着きすぎて面会時間まで余裕があったから、ここの一階に入っているカフェで一杯ね」

 ティムがニーナに、お見舞いのケーキを渡す。

「あそこの美味しい?」

「次回からは、大人しく待合室で時間を潰すことにしたよ」

 そう言って肩をすくめれば、ニーナが笑った。

「そういえば、しばらくコーヒーを飲んでないなあ。ねえ、次のお見舞いはコーヒーにしてよ」

「禁止って言われてるだろう」

「私の分は、あなたが飲むの。とびっきり美味しいやつを二人分買ってきてよ」

 言い出したら最後、ニーナに他の選択肢を提示するだけ無駄というものだ。ティムはケーキの箱を開けて目を輝かせるニーナを見て、はいはいと宿題を持ち帰ることにした。ニーナはケーキを机に並べて、自前の一眼レフのカメラで撮影しだした。元気そうな様子だけど、病院着からのぞく腕や首筋は、日を追うごとに目に見えて痩せ細っていく。医者によると、ニーナの余命はもういくらも残っていないらしい。

 人間、もちろんいつかは死ぬが、ニーナの余命が三ヶ月と宣告されたときは、目の前が真っ暗になった。日常に鳴りを潜めていた〝死〟に向かって、唐突に道が敷かれ、まるで奴隷のように抗えないまま、歩けよと路上に引きずり出される。

 それなのに、一緒に聞いていたニーナは「あら、意外とあるわね」とケロリとしていて、なんだか拍子抜けした。僕に気を使って気丈に振る舞っているとか、本人が現実逃避しているとかいう訳ではなく、素直にこれなのだ。少しあきれた。でも、彼女のそんなところが大好きだった。


 二日後、ティムは病院近くのカフェへと向かった。評判がいいお店なだけあって、広い店内はほぼ満席で、晴天の下にテラス席も埋まっていた。

 注文待ちの列に並んで、掲示されているメニューを見る。カフェラテにカプチーノ、ココアやスムージーなど、種類が豊富だ。順番が来て、目当てのものを頼む。テイクアウト用にホットのブラックコーヒーを二つ、紙袋に入れてもらって受け取ると、すぐに店を後にした。

 人を縫うように進めば、冷たい風が正面から顔にあたる。さらに歩調を早めようとすると、ポケットでケータイが鳴った。見れば、今まさに向かおうとしている病院からだ。胸騒ぎがして急いで電話にでる。耳元で看護師が捲し立てるのは、ニーナの容体が急変したという知らせだった。

 全身から力が抜けそうになるのをなんとか奮い立たせて、タクシーを拾って病院へと駆け込む。病室のニーナのベッドの周りには、見知った医者と何人かの看護師がいる。白衣の背中を押し除けて、ニーナの元へと近寄った。

 顔は血の気がなく、目を閉じて浅く息を吐いている。そっと頬を触れば温もりを感じて、少しだけ落ち着いた。

「二人きりにしてもらえませんか」

「処置をしたので今は安定しましたが、何かあったらすぐに呼んでください。それから」

 ニーナさんのこと、覚悟しておいてください。と医者が小さな声で、けれどはっきりとティムに伝えてみんな外へと出て行った。

 心電図の機械音が、規則正しく鳴っている。ニーナはまだ生きている。横たえられている手をそっと取った。

 君は悪あがきだと笑うかもしれないけど、奇跡が起きて急に病気が治ったりしないだろうか。もしくは、もっと早く気づいて検査に連れて行くから、時間が巻き戻ってくれやしないか。

 そんな、暗い後悔の沼を、どこまでも落ちていく。救いの手は伸ばされない。

「ニーナ」

 反応はない。

「ニーナ」

 叫びたいのをこらえて、もう少し大きい声で呼んでみる。ふと、床に転がるコーヒーの袋が目に入った。

 なりふりかまわず走って振り回したせいで、こぼれて紙袋はグシャリと水分を含んでいる。拾い上げて中を見れば、一つは蓋が外れて完全に中身が流れ出てしまっていたが、もう一つはなんとか無事だった。

「ねえ、ニーナ。美味しいコーヒーを持ってきたんだよ。君と一緒に飲みたくて」

 だから目を覚ましてよ。そう念じて、もう一度手を握っていると、薄いまぶたがわずかに動いた。

「コーヒーは?」

 今にも消えそうな声だった。力なく、けれどいつも通り優しい笑顔のニーナが、こちらを見ていた。


 蓋を開けて、残っている中身を少し、部屋にあったマグカップへと移す。マグカップは机の上に置き、元々入っていたカップの周りをタオルで拭ってニーナに握らせる。その手を包むように、自分の両手を添えた。

「ニーナの分だ」

「いい匂い」

 ニーナが小さく息を吸い込んだ。

「すごく人気のお店だった。きっとおいしいよ」

「一口だけ、いいでしょ?」

 二人の手の中のカップを、ゆっくりとニーナの口元へと運ぶ。わずかに顔をあげて、口をつけた。

「おいしい」

 楽しみに待っていただろうに、せいぜい唇を湿らすことしかできない。

「ティムも飲んでよ」

 言われて、マグカップに移し替えたコーヒーを飲むと、やたら苦くて酸っぱい味が舌を覆いつくす。ニーナは静かにこちらを見ていた。

「どう。おいしい?」

「ああ」

「本当に?全然おいしいって顔してないけど。眉間にしわを寄せちゃってさ」

 しわを伸ばすように指で揉み込む。

「久しぶりにあなたとコーヒーを飲めて嬉しいの」

「ああ」

「去年の春に行った旅行、覚えてる?」

「ああ」

「美術館に行ったら、一枚、やたらとティムに似た肖像画があったよね。絵の隣に、同じポーズで立つあなたの写真を撮ってさ。あれは面白かった」

「……っ」

「その後は、路上パフォーマンスに飛び入り参加して、ティムってば、チェロがあったのに、なぜかバイオリンを弾いたよね。同じ弦楽器だけど、あれは、そうね。伸びしろがたくさんありそうな演奏だった。ねえ、ほら、予定より少し早いけど、私はこんなにいい人生だった」

「……ああ」

「私が病床で一生懸命しゃべってるのに、あなたさっきから〝ああ〟しか言わないじゃない。ねえ、そんなに泣かないでよ」

 ずっと、涙を止められないでいた。

 悲しいことなんか何もないと、見え透いた嘘を自分に刷り込んできた。気付かないふりをして、大丈夫だと言い聞かせてきた。臆病者の僕は、そんな風に必死になってこの現実から逃げた。けれど、肝心なニーナがそれを許してはくれなかった。僕が逃げきれないことを、彼女はその身体をもって知っていた。

「僕もニーナがいてくれて、いい人生だった」

 こんなこと、言わせないでくれ。本当は、もっと未来の話がしたいんだ。

 ニーナがもう一度行ってみたい国。自分のコンサートツアーに帯同していたヘアメイクスタッフに贈る出産祝い。リビングの壁に新しく掛けたい絵。明日コーヒーと一緒に食べたいケーキの種類。

「そこのカバンから、私のカメラとって」

 ベッドのそばに、小さなカバンがある。仕事のとき、ニーナはいつもこれを携えていた。言われるがまま、カバンをあける。レンズと共に、鈍く光を反射する黒いカメラが収められていた。手に持てば確かに、ずしりと重い。

「ニーナ」

ベッドの方を振り返ると、彼女は目を閉じていた。心音を刻むのをやめた機械の音が、病室に響く。ナースコールを急いで何度も押す。

 医者の言う〝覚悟〟なんて決まっちゃいない。決められるわけ、ないじゃないか。

 コーヒーを用意したというのに、やっぱりニーナは最後まで大事な話をしてくれなかった。


 病院でニーナを看取った日から、ティムの時間も止まったままだ。

 朝起きるたび、ニーナのいない一日が始まることに絶望する。喪失感で膨れた身体には食べ物も入らず、何も手につかないまま陽が落ちていく。翌日も、その翌日も。自分を待ち構える明日は、こちらが望まない姿かたちをして、「これが日常だ」と押し付けてくる。そのうちに眠るのが苦痛になって、無理やり睡魔から逃げるようになった。

 本当は、ニーナが死んだなんて嘘じゃないのか。

 ニーナが好きで朝食によく作っていたパンケーキを、二人分焼いてみた。付け合わせのサラダとともに、向かい合うようにして机に並べる。

「今日もおいしいね」と言えば「当たり前でしょ」と嬉しそうな声が返ってくる。 

「あとでクリーニング屋に行かなきゃ」と予定を告げれば、「それなら、ついでにおやつのドーナツ買ってきて」とねだられる。

「何味がいいの?」と尋ねれば、「今決められないから、やっぱり一緒に行こう」と誘われる。

 全ては鮮やかな記憶のなか。今、僕は一人、空虚な部屋に語りかけている。

 頭がおかしくなりそうだった。


 一ヶ月が経ったとき、病室でのことを思い返していて、ふと、カメラが気になった。最後、ニーナはカメラで何をしようとしたのだろうか。

 撮影データを見てみると、最新は動画のようだ。日付を確認すると、死ぬ前日に撮影したものらしい。再生すると、病室のベッドから起き上がり、こちらを向いたニーナが映っている。これまでの思い出や感謝の気持ちを語っている。内容は、ティムに向けたビデオレターだった。

 そして、「私に、レクイエムを作って欲しいの」という新しい宿題がティムに提示されたのは、あと少しで再生が終わるというときだった。


 ジョージは、淡々とレクイエムを作ることになったきっかけを話した。

「ティムは、早くニーナのことを忘れてしまえば、ここまで引きずることなんてなかったのに、どうしてわざわざ傷の上塗りみたいなことを続けてるんだろう」

 ティムを初めて見たときは、少しやつれていたが肌にハリがあって、目には威厳が灯り、髪の毛もきれいなダークブラウンだった。それが今では、顔もチェロを支える手もしわくちゃで、頭髪は白く少なくなっている。身体も二回りほど小さくなった。

 二十年。大切な人からのお願いとはいえ、人生を費やすには長すぎる。

「忘れるなんてことは、できないんじゃないか?」

「そうだとしても、そんな悪あがきみたいなことをしたって、何の意味もないでしょ」

 ニーナは最後に願いを叶えてもらって喜ぶかもしれないけど、ティムにとっては、完成させたところで何になるっていうんだ。

 君は意外と頑固だなあ、と老人の分厚い手が、タオル越しに表面をなでた。

「何事にも意味はある」

「どうだか」

 幸せな記憶は、いっときの夢を見せるだけで、すぐに足かせになる。それならいっそ、思い出にすがるより、忘れてしまった方が簡単だ。

 老人は、修理する手を止めることなく続けた。

「レクイエムを作ることは、ニーナだけじゃなく、ティム自身のためなのかもしれない」

「これがティムのため?」

「彼なりの弔いってことだ。君には、の気持ちを理解するのは難しいかもしれないけど、残された人間には、そういった時間が必要なんだよ」

 ジョージは、しばらく考え込んでいたが、不満げに言う。

「そうだろうけど、僕にはやっぱり一番いい方法だとは思えないよ」

 老人は、手にしていたスパナを置いた。ジョージの傷は元通りきれいにふさがった。

「そうだ。この惑星でも、コーヒーを淹れられるようになったぞ」

 立ち上がって棚へと向かい、そこから豆とコーヒーマシンなどを一式取り出した。

「でも、僕は飲めないよ。ほら、石だから」

「かまわないよ」

 雰囲気を感じられるだけでもいい。袋を開けて、豆を取り出す。

 前回ジョージとコーヒーの話をしてから、あの香ばしい苦味が恋しくなり、すぐに道具をそろえてたまに飲むようになった。

 豆を挽いていると、ジョージが鼻歌を歌いだした。

 タラ―タラタラリラータランタラン……。

「それがレクイエム?」

「そう。何度も聞いたから覚えちゃった」

 老人がマグカップに入ったコーヒーを目の前に置くまで、ジョージの歌は続いた。長く引きこもって、カビかキノコでも生えてきそうなくらいジメジメと陰鬱な曲を作っているのかと思いきや、温かみのあるメロディだった。

「僕の分まで悪いね」

 辺りには、求めていた香りが漂う。

「一杯淹れるのも二杯淹れるのも一緒だよ」

「今の僕に、嗅覚すら無いのが残念だよ。この香りこそ至高なのにさ」

「そういえば君、若そうだけどいくつなの?」

「永遠の十七歳だ」

「十七の小僧がコーヒーを語るのか」

「僕はコーヒーのこと、いい香りのする泥水だなってくらいには評価してるよ」

「泥水?」

「ようするに、苦手なんだ。淹れてもらっておいて悪いけど」

「私も、昔はこんなもの飲めたもんじゃないと思っていたけど、歳とともに良さがわかってくるものもある」

「僕はそこまで到達できなかったなあ」

 ジョージと同じ色をした液体は、程よい苦みが舌に心地いい。カフェインが持つ眠気覚ましの効用も、この穏やかな空気の元では形無しで、しばらくまどろんでいた。

「さて、僕はそろそろお暇しようかな」

「気をつけて。あんまり無茶するんじゃないよ」

「僕は、どんなにボロボロになっても、あなたがこんな風にきれいに直してくれるんだと知っているから、いつだって安心だよ」

 ジョージとのしばしの別れが、少しだけ名残惜しい。またあと二年ほど、一人で黙々と仕事をするのかと思うと、相棒のラジオの声が急に味気なく感じた。


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