蛍光オレンジのコスモス

伴美砂都

蛍光オレンジのコスモス

 七月の海の日に、実家に帰った。在来線で二時間と少し。私は車を持っていないから、大きな荷物を持ってバスと電車を乗り継いでいく。

 実家近くの駅までは母が迎えに来てくれた。家に着いたのはもう深夜で、寝ていた犬が一瞬起きてわちゃわちゃと走ってきて、わんきゃんと二回吠えて迎えてくれた。


 三連休はよく晴れた。向日葵を見に行きたい、と私は言った。母は暑いのが嫌だからやめておくと言ったので、父と二人出掛けた。

 海に近いところに季節の花を植えているところがあって、数百円の入場料を払えばいくつか花を切って持って帰ることができる。そこに今の時期向日葵が満開になっていると、先週水曜、朝のテレビのニュースでやっていた。実家からのほうがずっと近いのに、住んでいたときは一度も行ったことがないところ。


 実家から車で四十分ほどで、海に出る。くねくねした山道をずっと走って行くのに、いきなりばあっと開けたように目の前が海になるのだ。

 くねくねした山道は、昔はもっと鬱蒼とした木々に両側から圧迫されるような道だったと記憶しているが、今はだいぶ道も広くなって、新しい建物も増えたように思う。それでも、高いビルなんてものはひとつもない、隣家との間も広いような風景なのだけれど。

 海の横を通ってもう少し坂を上ると目的地の近く。道路沿いにもう色鮮やかな花が咲いていて、私は助手席でシートベルトを引っ張って、振り向きざまに窓に頭をくっつけるようにしてそれを見る。


 「蛍光オレンジのコスモス!」


 その花は黄色に近い鮮やかなオレンジで、まさに蛍光ペンのオレンジ色。コスモスといえばピンクや白や、黄色でももう少しおとなしい色のようなイメージなのだけど、車道と歩道を分ける数十センチのスペースに溢れ出さんばかりに咲いたそれらは、形こそ間違いなくコスモス、でも、見たことのない色合いだった。

 ねえ、蛍光オレンジのコスモス、ともう一度、今度は運転席の父に向けて言ったけれど、父はただ、うん、と聞き返すようにだけ言って、サングラスをかけて前を見てハンドルを握っていた。少し開けた窓から熱い空気が入ってきて、クーラーで冷えていた車内の空気と、前髪をぶわっと乱した。


 「それはコスモスじゃなくてガイライシュだね」


 帰宅したころには日が暮れかけていた。私の話をきいて母はそう言った。持って帰ってきた向日葵は居間に。背の高い仲間たちが群生する畑の中で見たときは、意外と花はちっちゃいな、と思ったけれど、夏なのでこたつ布団を外してあるこたつテーブルにそれを飾ると、思った以上の存在感がある。

 母は植物に詳しい。ガイライシュ、というのが一瞬それの名前なのかと思ったが、聞くとそういう花の名前じゃなくて、ガイライシュは、外来種。外国から来た種類、という意味だ。

 なるほど、と私は思う。あれがアメリカ産かどうかは知らないけど、あの鮮やかなオレンジは、日本かアメリカで言ったら確実にアメリカだ。


 実家のノートパソコンのキーボード部分には、いつからか、「L」と「無変換」のキーが無い。そのふたつを使う必要があるときには、キーの取れてしまった下の、金属の板がちょこっと出ているところ、内部器官にぺたりと触れるようにしてそれを打つ。かなり古い型で、調子が悪くなくても起動するのに二十分かかる。それでも、実家にいるときはそれを使う。

 深夜零時。蛍光オレンジのコスモス、と入力して、エンターキーを押した。めちゃくちゃな検索語だったから少し時間を要したけれど、ほどなくして辿り着けた。それはオオキンケイギクという外来種で、たしかにコスモスではない。北アメリカ原産、一八八〇年代に鑑賞目的で輸入されたが、繁殖力が強すぎて在来種の植物に悪影響を与える懸念があるため、現在は栽培を禁止されている、とか。

 自室の効きの悪いクーラーを止めて、窓を開けて網戸越しに外を見た。上の方から、ぬるい空気がぼんやりと迷い込んでくる。扇風機の微弱の風の音。普段の仕事がオフィスワークだからか、今日が特別に暑かったからか、昼間浴びた太陽の熱がまだ身体に残っているような気がしている。父の車の、微かな煙草の匂いも。

 隣の部屋では父がまだ起きている気配がする。父の部屋はどんなに掃除をしても煙草の匂いと、床と壁に染みついたやにの茶色とざらつきが消えない。


 私が父に対して反抗期を迎えたのは大学になってからだった。父が食事の支度を手伝わないのも、リストカットを繰り返す妹やそれを見て心を傷めている母のことにも無関心であるようにみえたのも、レストランの店員さんに偉そうな態度を取るのも、全て嫌いになった。いちばん大事なことを見てみないふりをしている、仮面家族だ、と。

 反面、父の稼ぎがなければ私たちは生きてもいけないのだ。感謝しなければならないという義務感が、父と娘の関係を繋ぎとめていた、ありがとう、という言葉は何度もうすら寒く響いた。

 社会人になってから、というより私が一人暮らしを始めて時々しか会わなくなってから、前よりも父との距離感は丁度良く感じる。それでも、父との会話はどこか作りものめいて、一線を越えられないままずっと居る。そんなことを言う私がいちばん大事なことを、重たいことを見て見ぬふりをして過ごしていることは、自分でも薄々気づいている。


 思春期のころ、父の運転する車でよく出掛けた。その頃は父が嫌いだとか思わなかった。私の好きなDo As InfinityのCDを車でかけて、このひとの声はいいな、もっと歳を取ったら中村あゆみさんみたいになるな、と言っていたのをきいて、私は父に中村あゆみさんのCDを借りた。それと、父がずっと好きだったチューリップの曲も。

 そのふたつは就職するとともに実家を出て一人暮らしを始めた私のハードディスクに今もまだ入っていて、たまに思い出したように流しながら家事をする。


 今でも父の車に乗るとき、チューリップのベストアルバムと、中村あゆみさんのハート・オブ・ダイヤモンドをかける。それから、椎名林檎さんの無罪モラトリアムと、カバーアルバムの唄い手冥利。父は職場の部下のひとたちとカラオケに行くと、「木綿のハンカチーフ」を歌うのだという。


 「え、原曲だよね?」

 「いや、林檎さんバージョンの」

 「……」


 それで場が盛り上がるのかどうか突っ込むのはいろんな意味でやめておいた。

 ともかくも。父は良くも悪くも、他人に影響を受けないタイプの人だと思う。頑固な、アラウンドフィフティ。でも、そんな父が私を娘にもたなければ椎名林檎なんて一生聴かなかったかもしれないと思うと、何だか少しだけ感慨深い。

 父が林檎ちゃんの「幸福論」や、私が好んで聴くカバーアルバムの中の一曲を口ずさむとき、父の娘に対する愛のようなものを、私はいちばん強く感じる。父はひどい音痴で、ちょっと聴いただけでは何だかよくわからないのだけど、ともかく。


 「お父さん、最近仕事は忙しいの」

 「まあ、いつもどおりだな、月末はわやくちゃだ、最近は週の半分は東京に住んでる」


 私が大学を卒業して仕事に就いてから、父は私にも仕事の話をするようになった。それまでは、家に居る時仕事の話なんて、小学校のときの宿題で「おとうさんのしごとをしらべましょう」というのが出たとき以来、出したことのない人。そのときも父本人ではなく、母に聞いたような気がするし。私達が幼い頃から、ずっと。幼かったからこそ、なのかもしれないけれど。

 忙しい、だなんて口に出さなかったけれど、毎日深夜を過ぎてから帰宅して、休日も難しい、というよりひどく厳しい顔をしていたから、きっとすごく忙しくて、身体も、気持ちも、きつかった頃だったのだろう。日曜日に公園で、私と妹が遊んでいるところから少し離れたベンチに、眉間に皺を寄せてただ座っていた。

 当時は、そんな父が怖かった。いつだったか、お風呂上がりに着替えをするのを嫌がって、お父さんは嫌、お母さんがいい、と何度も言って泣いたことがあった。父は怒って、そんなこと言って、風邪引いて高熱出して、苦しんでも知らんぞ、と声を上げた。私はますます泣いたのだけれど、そのとき父が勢いででも、高熱出して、死んでしまえ、と言わなかったことを私は尊敬する。当たり前だろう、と思うかもしれないけれど、自分が毎日必死で働いて養っている家族に、お父さんは嫌、と拒絶されたことを思えば、それは十分すぎる理性と愛情だと。

 父が仕事の話をしてくれるようになって、私は嬉しかった。二十数年見えなかったお父さんの要塞の奥を、少しだけ見せてもらえたような気がして。それから、お父さんにとって私が、心の内を明かすに足る人間だと、ひとつ認めてもらえたような気がして。三・一一の大震災のすぐあと、関東や東北の社員さんたちのことを「何とかしてやらなきゃいかん」と言って、携帯電話を3台とノートパソコンを持って家中をうろうろしていたお父さん。私はお父さんのことを仕事人間だと思っていたけれど、仕事人間じゃなくて、仕事人でした。ちょっと、家庭を顧みないのと空気が読めないので、お母さんに冷たい目で見られていることもあるけど。

 最近は休みのたびにふたりで旅行に出かけたがるのだと、母からのメールで私は知っている。空回りしながらも、お母さんを愛しているお父さん。見栄っ張りで自分勝手な態度は、沢山の人を束ねて仕事をしている、男のひとの背負うものの大きさ。

 父に対する私の気持ちは、嫌いと尊敬が相まって、いつまでも思春期のままだ。


 父のいちばん嫌いなところは、お酒と煙草をやめないこと、高血圧の薬を、コーヒーで飲むこと。お酒を飲んでも大声で怒鳴ったり暴力をふるったりは絶対にしない。ただ自室でひとり黙々と深酒する。倒れるまで誰も気づかないなんて、悲しすぎる。父のそういうところが、私はいちばん嫌いだ。

 怖いとか嫌いとかそんなことばかり思っていたせいか、父に触れた記憶が私はあまり無い。ふたつ、おぼえているのは、小さいころ、行き慣れたスーパーで一緒に来ていた父をなぜか見失ったとき。迷子の呼び出しをされて、父に会えた瞬間私は泣きだした。そのあと抱き上げられて、昭和三十年代生まれにしては高い身長、178センチの高さから見下ろした、本屋の低い棚。

 もうひとつは一昨年の秋。深夜に酔った父が階段から落ちて、救急車を呼んだ。救急車が来るまでの間も救急隊員のひとたちが到着してからも、鼻や口から血を出しながらも頑なに大丈夫と言い張り起き上がろうとした父のお腹のあたりを、お願いだから大人しくしていて、と止めるために触った。贅肉の欠片もない細くて硬い身体と、不釣り合いなほどの体温の高さ。短パンから突き出た足の細さと、白さ。

 それを思い出してしまうから、きっと今のところずっと私は、父の身体には冗談でも触れられない。


 私は父の価値観にきっと一生共感できない。理解するのも、きっとむずかしい。それでも、今はやっと、頭で想像するぐらいのことならできる。

 表面的な言葉しか交わさないから、無言で隣にいる時間に、ほんとうのことが伝わっていけばいいのに。そう思いながら父の車の助手席に乗るのは、ずっとお父さんに甘えているのだろう。


 父が洗面所にウイスキーの残った氷を捨てて、階段を降りていく気配がした。もう何年も同じように聞いた音。その音に少し安心して、私もパソコンをシャットダウンして、部屋の電気をやっと消す。

 明日も朝五時半に起きて、戦地へ赴いていくひと。頑張れ、お父さん、と心の中で唱えて、私も明日は今の住処へ帰って、また日々を戦うのだ。父に比べればずっと未熟で温い毎日だとしても。

 目を閉じる、ばねの緩んだベッドが僅かに軋んで、瞼の裏には今日見た向日葵と灼けつくような太陽を浮かべた青い空と、蛍光オレンジのコスモスがあった。

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