3.
「本当に? やってみてよ」
リンはにっこりと三日月型の笑みを浮かべた。きっとこの表情ですら切り取られて記録されるのだろう。不愉快だ。この顔は私だけの物なのに。
機械は人間に成り代われない。その理由は深く考えるまでもないのだ。
アマゾンは欲しいものリストがタイムセールになったのを教えてくれるだけで、グーグルは鬱病患者に最寄りのクリニックを教える事しかできない。
全ては模倣に過ぎず、最適化された振る舞いでしかない。それを過剰な演出で誤魔化しているだけなのだ。
「新しいあんたへ、私は絶対会いに行かない」
これが答えだ。
彼女は不意をつかれて目をそらした。掴んでいた私の手を離して、暖炉のある方を見つめた。
――葛藤。それが生き物と無機物を分かつ境界線だ。
彼女は今、自らの延命と私との思い出との間で葛藤している。
思考の集積から合理的なイコールを導き出すだけならば、そこに葛藤は生まれない。複数の提案は出来ても、それを伝える事に疑問は抱けない。
機械は悩まない。貴方のために悩めない。ただ最も優れた回答を伝える事しかできない。それが今ある技術の限界なのだ。
――ああ、この商品はきっと年末のタイムセールで安くなるだろうな。けれど最近頑張っているし、たまには自分へのご褒美として散財するのも良いかもしれない。
――悩みを聞いてあげれば少しは楽になるかもしれない。けれど話してよと催促するようなアプローチは返って負担になるかもしれない。
アマゾンやグーグルが贈るテクノロジーは悩まない。だから彼らにカウンセラーは必要ない。
ターミネーター、バック・トゥ・ザ・フューチャー、アキラ、攻殻機動隊。数多の未来を描いたフィクションを超えた時代にあったものは、夢物語には遠く及ばない操り人形だけだった。
だから、「貴方は二人になどなれない」。
悩み一つない人間など、笑わないミッキーマウスと同じだ。
「……酷いな、せっかく決心してここに来たのにさ。慰めるとかしないんだね」
「私はあんたの悲しみを肩代わり出来ないし、あんたは私の苦悩を癒やせない。私がやっているのは、単なる我儘だよ」
「分かってるよ、ちょっと拗ねてみただけ」
私が天国を否定するということは、彼女に「苦しんで死んでくれ」と言っているようなものだ。そこに葛藤が生まれる。人間を人間たらしめる、厄介な思考の檻に閉じ込められる。
「でもごめんね。天国に入った者は必ずここで死ぬ決まりなの。今更地上へも地獄へも降りられない。だから私を私のまま心に留めたいなら」
彼女は私の手を取り、にっこりと笑った。満面の笑みのはずなのに、私の中で恐怖のランプが灯る。
「今ここで私を殺して」
どうやって。震える声で聞き返す。
天国は演者たちが常にいるし、何よりもここは人工知能化の現場であると同時に延命治療施設でもある。一年間無事に生ききる為に、医療従事者が常にどこかに身を潜めている。
「私のあげたジッポー、まだ使ってくれてたんだね」
家に着くまでに一度取り出していたものを、彼女はちゃんと確認していたのだ。数年前に誕生日プレゼントに貰ったもので、今も大切に使っている。かちん、と蓋を開くたび彼女の顔を思い出していた。
「当たり前だよ。でも何で――」
はっと息を呑んだ。煙草。時代遅れの紙巻きで、ライターで火をつけて灰を撒き散らす迷惑極まりない行為。火。私は常にジッポーを持ち歩いている。ライターよりも火力があって、ガスバーナーよりは小さな武器。
「これが最後の機会なの」
天国にいる限り、アクシデントが起きても直ちに治療が行える。必ず蘇生させられるだけの体制が整っている。
だから屋上から突き落とそうとも、絞め殺そうとも、仮に脳波が停止しようとも、きっと生き返させられる。
脳死が確認されても、数時間以内であれば蘇生に成功した事例はいくつもある。
けれど、脳そのものが無くなってしまえば。治療のしようがない。
全身火傷に対する適切な治療法は、未だ確立に至っていない。
「ね、私を殺して」
「そんな、どうして……」
「貴方も言っていたでしょ、貴方は私の傷を癒せないし、その逆もまた然り。だから私を苦しめたいのなら、マイも苦しまなきゃ」
彼女はまた笑った。掌を掴む力が急に強くなる。リンは笑っている。私は恐れている。
「私を私のまま閉じ込めておきたいのなら、せめて断末魔を最後まで聞いてほしいの」
彼女が人間のまま死ぬために。
私が人間のリンだけを見ていられるように。
彼女は私に消せない罪を刻ませたいのだ。
私が彼女を殺した。彼女は苦しんで死んでいった。我儘を貫いたばかりに、苦しんで死んだ。
その罪悪感が残り続ける限り、私の中で彼女の存在はどこまでもつきまとってくるだろう。彼女の事を忘れられなくなるだろう。
燃やし尽くして、灰も残らないくらいに。余りにも苦痛を伴う殺し方だというのに、私はほんの少し後押しするだけでいい。ただ火の尻尾を彼女の頬に触れさせるだけでいい。
速やかに彼女を燃やす。そしてただ眺める。
それが彼女への贖罪になるのだろうか。
それが彼女を想うという事なのだろうか。
リンは死ぬために天国に来た。
いや、あるいは殺される為に天使になった。
その為に私を呼んだ。
そのためにレンガの家を諦めた。
木で出来た家は悪いオオカミに燃やされる。
「ねえ知ってる? 行き過ぎた尊厳主義の果てでは、自殺すらも美徳と化すんだよ」
私は窓の外に目をやった。住人たちが、あるいは演者たちが、あるいは監視者たちがこちらを見ている。じっと、直立不動のまま、私を見ている。
彼女は私のポケットに手を入れて、ジッポーをするりと取り上げた。そして暖炉に火を灯し、その前に座り込んだ。
「私の知能は今この瞬間、完成したよ。貴方のおかげでね。だからもう死んだって構わないの」
「そんなの、そんなの嘘だよ。感情に終わりなんて無い」
背中越しに彼女はけらけら笑う。
「必要な感情は全部揃ったよ。ここから先は単なる味付け。私が私になれるのは、いつだって嘘偽りの無い貴方がいるから」
ああ、彼女は今この瞬間、間違いなく人間だ。
余りにも刹那的で、退廃的で、どこまでも私を捉えて離さない。
「だからね、私を殺して。私を燃やし尽くして。ただ押してくれるだけで良い。童話みたいにね」
今思い出した。彼女が暖炉を欲しがったのは、ヘンゼルとグレーテルの絵本を読んだからだった。悪い魔女は暖炉の中に突っ込んで燃え死にました。ハッピー・エヴァー・アフター。
「私の事、絶対忘れさせないから」
彼女の笑顔は愛なのか、それとも憎悪なのか。
この感情はきっと、天国では見つけられない。
薄汚れた地上にこそ、人間の美しさは落ちている。
ごめんね、リン。こんなにもぐちゃぐちゃに拗れてしまったのは、きっと私の身勝手さが原因だから。
継続される命を否定する為に。
貴方という記憶を持続させる為に。
震える掌が、彼女の背中に辿り着く。
私は彼女の背中を、
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