菊っちゃんの時計
神沢 篤毅
第1話 おばあちゃんの時計 2020/06/17
あれは何十年前になるだろう。
僕が小学三年生だった頃の話だ。
夏休みが半分過ぎた頃。
僕は、父方の田舎から自宅へ帰ろうとしていた。
真っ青にどこまでも広がる空と、そこに浮かぶ入道雲が、駅のホームに立つ僕とおばあちゃんを見下ろしていた。
ギラギラの太陽が駅のホームごと僕らを焼きあげて、僕はポップコーンみたいに爆ぜてしまいそうだった。
「いーちゃん」
振り返ると、身長百五十センチもない僕のおばあちゃんが、僕を見ていた。髪を丸く結い上げて、皺だらけの丸い顔が、優しく僕を見ていた。
「おばあちゃんはね。いーちゃんが、遠いところにいても、毎日いーちゃんのことを思っているんだよ。今頃、いーちゃんは何してるだろう。風邪を引いてないかな。ちゃんとゴハン食べられてるかなって」
ざっと、湿った突風が吹いた。蝉の声がさっきまで空気を震わせていたのに、ピタっと止まった。夕立でも降るかなと思わせる湿った風が吹いて、少し草の匂いがした。そして、蝉の声が何事もなかったように鳴り出した。
僕は、駅のホームの脇に立つ高さ二十メートルはある杉の木を見上げた。杉の先っぽが、風に左右に大きく振れているのが、手を動かしてるみたいで不思議だった。ちょっとだけ杉の木が滲んで見える。
「おばあちゃんも一緒に行こうよ。一人で暮らすより三人で暮らした方が楽しいよ」
おばあちゃんは、嬉しそうに笑って、けど首を横に振って、口を開いた。
駅のすぐ脇にある踏切が鳴り出して、おばあちゃんの声が聞こえない。その時だった。
「イネよ、ますますババァに磨きが掛かったなぁ。それにしても、このガキは誰だ」
おばあちゃんの目がまん丸になった。自分の右腕を見下ろして、腕時計を見る。僕もビックリして、周りを見回した。近くに人はいなかった。
踏切の音と、電車に到着のアナウンスが響く。
電車が来る方を見ると、緩くカーブする線路の向こうから電車が近づいてきた。
おばあちゃんが、手に嵌めていた年代物の腕時計を外してジッと見つめた。そして、腕時計を胸に当て、目を閉じ、大きく深呼吸をした。
3両編成の電車が駅のホームに到着して、ドアが開く。
駅名のアナウンスがされて、ホームで一緒に待っていた人達が電車の中に入り始めた。
「いーちゃん、今の聞こえたね」
おばあちゃんの勢いに気を押され、思わず頷く。おばあちゃんの名前はイネだった。
「この時計はね。おじいちゃんの形見だよ。おじいちゃんだ」そう言いながら、腕時計を押しつけてくる。
「いや、イネ。ちょっと待て」
また声が聞こえた。これは、耳から聞こえたんじゃない。頭の中に響くんだ。
「アンタの孫だよ。さっさと死んじまって、私がどんだけ苦労したと思ってるのさ。借りを返しな」
「いや、イネ。だから」
出発のベルが鳴った。僕は状況に付いて行けなくて、おばあちゃんに腕時計ごとホームから電車の中に押し込まれた。
「困ったことがあったら、おじいちゃんに相談するんだ。言うこときかなかったら、おばあちゃんがそっち行ったらただじゃおかないと言っておくれ」
「いや、聞こえてるし」
電車の発車を知らせる笛の音がホームに響く。
おばあちゃんは、ホームに置いてあった僕のリュックを電車の中に放り込んだ。
「アンタ、頼んだよ。いーちゃん元気でね」
ドアが閉まった。
ゴトリと電車が動き出す。
おばあちゃんが、ドアの向こうで手を振ってる。
僕も手を振り返した。
窓の向こうのおばあちゃんがどんどん小さくなっていく。やがて見えなくなった。
僕は思わず呟いていた。
「僕の優しいおばあちゃんじゃない」
気楽な声が返ってきた。
「昔から、あいつは猫被りだからなぁ」
「…」
「んで? お前誰?」
「…」
僕はその場にへたり込んだ。
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