第二話――水滴に滲む記憶

 質の良い滑らかな生地は、持ち主の瞳と同じ深紅の色に染め上げられている。それを金の飾り紐とボタンを使って仕立て上げた礼服の胸元には、王冠をモチーフとした王立騎士団の紋章が光っていた。厳格にも思える服装に身を包んだ少女は、肩を軽く越す長さに整えた桃色の髪をふわふわとなびかせて廊下を走る。

 足音を吸い込む絨毯を磨き上げた革靴が踏みしめて角を曲がった。その途端に見えた目的の人物の背中に向かい、大きな眼を輝かせて少女は手を振った。

「ひめさま!」

 響いた声に応えて、マリンブルーのドレスが翻って振り返る。頭から被った薄青のヴェールの下で、編み込み纏めた髪が鈍く光っていた。

「これ、廊下を走るでない。まったくお主は……」

 そんな言葉と裏腹に浮かぶ表情は優しい。プラチナブロンドの姫君は小さな騎士を迎え、気を許した微笑みを浮かべた。



 今から十六年ほど前。王族直系第五子第二王女ユプシロンは、待ち望まれていた存在として生を受けた。

 三人の兄と一人の姉にはない、どころかここ数十年現れることのなかった神の祝福の証。月の輝きを撚り合わせた純銀の髪が、彼女を特別な存在たらしめた。

 かつて王家の血を継ぐ証でもあったプラチナブロンドは、長い年月と代を経て希有なものへと変わっていった。そんな中産まれた存在がユプシロンだったのだ。

「それで、なんかあったの?」

「うむ。これを頼むならアルファでなくてはと思うてなあ」

 階段を下りながら、姫君は細い指先を口元に当てて頷く。その隣にとたとたと並んで、アルファはユプシロンの顔を見上げた。

「え、なになに」

 信頼を感じる台詞が純粋に嬉しかったのだろう、尋ねる表情は明るい。しかし、

「庭師のシーズの手伝いじゃよ」

「へ?」

 聞いた途端に、その顔は困惑に塗り変わった。

「なんでも弟子のひとりが体調を崩したそうでな、そなたの力ならば助けになるであろ」

 それに妾も興味深いしの、と無邪気な笑顔を浮かべた高貴なる人に向かい、溜め息も吐ける筈がなく。

「……しょーがないなあもう。姫様は危ないことしちゃダメだかんね!」

 まるで聞かぬ妹を窘めるかのように言ったアルファへ、ユプシロンは嬉しそうな笑い声で返した。



 季節ごとの花々が美しく咲き誇り、白い石造りの石畳に色を添える。広々とした中庭は王宮にあるものに相応しく整えられていた。その一画に、素朴な作業着が驚くほど似合わない女性がひとり。

「うむ」

 軍手をはめた手で雑草を一点に集めると、しゃがんでいた脚を伸ばして背を反らした。体勢を保って固まった体を解していた彼女の、日差しを遮る帽子に上半分を狭められた視界へ同じく作業着に身を包んだ姿が飛び込んできた。

「はーい、肥料持ってきたよー」

 たかたかと足音を響かせて、少女は大きな袋を運んできた。それに応えたのは花の苗を検分していた老人だ。

「おう、ありがとうなあ騎士様」

「これくらいたいしたことないもん」

 下ろした袋はどすりと重たげな音を立てたが、運んできた当人は平然としている。庭師は曲がったままの腰を叩きながら皺だらけの顔に笑みを浮かべた。

「本当に助かりましたなぁ、後はワシひとりでなんとかなりますでしょう」

 新たな苗を迎える準備が整った一区画を見回して言った、その顔をアルファは見上げる。

「無理しないでよ、おじーちゃんなんだから」

「分かっとるよ」

 思わずだろう撫でようとした手を留めて、老人は孫のような年ごろのふたりに微笑んだ。

 見送る姿に手を振って返し、王宮のホールへ足を踏み入れる。細工の凝った大きな時計を見上げ、ユプシロンはアルファに向かい小首を傾げた。

「ちょうどよい時間じゃの、今日は寄っていけるのであろ?」

「うん、ご一緒させてもらおっかな」

 丁度良く鳴り響いた、お茶の時間を告げる鐘。少女が軽くなった足を弾ませる、その様を微笑ましげに見ていた姫君に横から声がかかった。

「あら、姫様も騎士様も随分とお転婆なことをなさって」

 対面から来た顔なじみのメイドが眉を顰める。土の付いた作業服姿で顔を見合わせたふたりに、年嵩の女性は深く息を吐いた。

「そのままでお部屋に戻っていただくわけにはいきませんわね」

「それもそっか」

 アルファが唸り、くるりと向きを変える。

「先に浴場行こー、ね」

「……うむ、そうじゃな」

 後をついてくる声に、少女騎士は知り尽くした道のりをずんずん迷いなく進む。だからこそ。

 陰る顔を、知ることはなかった。



 訓練の傍ら自然と鍛えられた素早い身支度の技術を発揮し、元の礼服姿へと戻ったアルファはユプシロンの私室のドアノッカーを打ち鳴らした。返事を貰わないまま室内へ滑り込み、整えられたソファにぽすんと座る。

 天井を振り仰ぎ、少女が思い起こすのは浴場前で別れたこの部屋の主のことだった。今頃使用人の世話の元湯浴みをしているだろう姫君の様子を閉じた瞼の裏に描き、眉根を寄せて唸る。

「……何、言いたかったんだろ」

 微笑んで誤魔化す、そんな言い淀みを騎士に向けること自体が大変に珍しかった。疑問が静かな空気に溶けた、その残響を打ち破って扉が開く。

「――アルファッ!」

 切羽詰まったデルタの声に、アルファは弾かれたようにソファから立ち上がった。すぐさま踵を返した少年騎士の、礼服を纏った背中を追いかける足音は絨毯に吸い取られた。

 今日一度通ったルートを走り抜け、角を曲がって両開きの扉の中へ飛び込む。そこで立ち止まったデルタを勢いよく追い抜いて、入り口で立ち竦む年若い女官にも構わずに。半開きの扉を潜ったアルファの眼に映ったのは、布を被ってへたり込んだ背中だった。

「ひめさま」

「っ、アル、ファ」

 か細い声が反響する。湯船から部屋に満ちる温度があってさえ、震えていた。ゆっくりと近づく、脱ぎ忘れた靴音に一際大きく肩を跳ね上げた、その様に少女は一度唇を噛む。

「……だいじょうぶ」

 そうして、何より先にその言葉が転がり出た。まだ何ひとつ分からないままでも、ただそれだけを保証するために。

「うちらがいるから。ね、姫様」

 傍らにしゃがみ込んだアルファが触れた、微かな振動が防壁のような布を滑り落とさせる。声を零さず飲み込めたことは、少女騎士自身にとっても幸いなことであった。

 再来した王家の宝、奇跡のプラチナブロンド。澄み切った銀色だった髪は、頭頂部から紺碧の青に呑まれ始めていた。



 今は亡い第二王女の母は、水聖霊ウォーティスの祝福を受けたひとだった。雪色の肌に紺碧の髪と瞳を備えたその美貌を見初められ、王へと嫁いだ。

 その母と瓜二つだと言われた眼が変化を映したのは、十日ほど前の夜だった。

色は違えど質を受け継いだ滑らかな髪は、ユプシロンにとっても誇れるものだった。自らの手でそれを梳ることを好んでいたからこそ、誰より先に本人が知ることになった。

「全く大臣は、昔から話が長すぎるわ」

 公式の場で身につけることを習慣づけられた長いヴェールを自らの手で外し、ひとり自室を横断する。部屋の外まで付いてきたメイドには、眠る前の温かい飲み物を用意するよう言いつけていた。その去り際に着けていった燭台の灯りが、カーテンも閉めた室内の暗さを和らげる。

鏡台に向かい、ブラシを取り上げて腰掛ける。髪紐を解いて一房手にし、自分の似姿を見ながら片手を動かした、その最中に生じた違和感。

「……む?」

 初めは、部屋の暗さ故と思った。けれど。

 まさか、とユプシロンは燭台を引き寄せ、鏡を覗き込む。向こう側で青い瞳を見開く娘が、ブラシを取り落とした手で己の頭に触れた。

「そ、んな」

 指先に絡んだ髪が、燭台の光を含んだ。目映い銀は、わずかながらも確かにある深い色へ至り陰る。何度試しても、それは夢幻のように消えはしなかった。やがて力を失って項垂れた娘の顔は、色を得てしまった髪とは対象的に白く色を無くしていた。

 第二王女は奇跡の子。その意味は、生まれついたときからユプシロンについて回るものだった。一時は重責と思ったそれも、今の姫君にとっては果たすべき役割と分かっていた。

 だからこそ。



「わらわ、は」

 華奢なカップに雫が落ちる。項垂れて言葉を詰まらせるユプシロンが座るソファへ、アルファは寄り添うように腰掛けた。

「だいじょうぶ」

 そうしてまた繰り返す、少女の真っ直ぐな赤い瞳が潤む青を覗き込む。

「姫様は、うちらの姫様だもん。変わんないよ」

 呼ぼうとした名前も喉に詰まらせて、ユプシロンの体が傾いだ。反対側から伸びた手がそっとティカップを受け取り、見届けたアルファは自分の主を受け止める。

「……お願い、じゃ。わらわを」

 見捨てないで。一人に、せんでくれ。

「あったりまえでしょ」

「もちろん、キミがオレらの主なんだから」

 縋り付く腕に小さな手のひらを優しく添えて、アルファは跪きカップを手にしたデルタを見た。騎士ふたりは頷き合って、決意を交わす。

「信じて」

 それは、何をおいても優先しようと決めた、そうしなければならない誓いだった。



 目当ての相手を見つけて、少年はその背を追いかけた。廊下をいくらか進んだ、見当を付けた位置で声をかける。

「やあ」

 気負わない軽い挨拶に、まだ少女と呼べる年頃のメイドはあっさりと振り返った。王立騎士団の精鋭である少年騎士は口角を上げたまま、

「顔、貸してね」

 メイドの腕を掴んで横の通路へ引き込んだ。

「ひっ」

「オレさ、キミに言ったと思うんだけど」

 同じ年頃から比べれば、少年の背は低いと言えた。けれど、笑わない瞳が小柄なメイドを見下ろすには充分だった。

「事態は重大だから、方針が決まるまでは軽々しく口にしないでよね、ってさぁ」

「あ、の」

 掴まれたままの腕の痛みを訴えることもままならず、メイドが顔を引き攣らせた。開き直る言い訳どころか、謝ることも許しを乞うことも為せない姿を見下ろして、デルタはひとつ舌を打った。

「今更言ったって仕方ないけど」

 あの日、通りがかったのが自分でよかったと心底騎士は感じていた。それが誰であっても、おそらくこのメイドは全て話してしまっただろうから。せめて支えられる自分で、自分たちでよかった、と。

 捕らえていた腕を突き放し、少年は踵を返した。

「……あの、申し訳、ありま」

「だから」

 遮った声色は、評判に聞く女性への優しさなど欠片もない冷たいものだ。

「今更謝ったって、なんにも変わらないんだって」

 振り返りもせず立ち去って、充分に離れたと感じてからデルタは息を吐いた。らしくもない八つ当たりじみたことだと自嘲する。そうして唸って、本来向かうべきだった場所へ足を向けた。

 ドアノッカーの後の返事を待って、扉を開けたデルタは室内に向けてひらりと手を振る。

「ごめん待たせちゃった」

「おっそい!」

 頬を膨らませたアルファの隣で、いくらか弱々しくともユプシロンがクスクスと笑っていた。

「またどっかで道草したんでしょ」

「そんなにはしてないって」

 軽口を叩きつつ、ふたりの対面にあるソファへ身を沈めてデルタは肩を竦める。

「ちょっとはしてんじゃん」

「ほんに仕方ないのう、デルタは」

 呆れた口調で続けられては敵わない、と戯けた調子の少年にアルファは眉を吊り上げたが、ローテーブルのクッキーを摘まんで飲み込み落ち着きを取り戻した。

「それで、どーなの」

 その一言で、部屋の空気が変わる。ユプシロンの握り締めた拳を、撫でて労る小さな手のひらを見るともなしに見ながらデルタはメモを取り出した。

「……正直、オレらだけじゃこれ以上は厳しいかな」

 歴史、伝承、お伽話の類い。ユプシロンをアルファに任せてここ数日駆けずり回ったデルタだったが、芳しくない結果のみがメモに並ぶことになった。

「ここで当てが無くなったとすると、いっそ神殿……あのふたり辺り当たってみる、とか」

「ええー?」

 思いっきり顔をしかめたアルファに、仕方ないでしょとデルタは返した。

「……あの、前に話しておった神官と、護衛官じゃったか?」

「信用は出来るよ」

 あえて軽くデルタは言ったが、それでもユプシロンの顔は晴れなかった。すぐ納得は出来ないことは予想の上だったのだろう、デルタはあっさりと話題を変えた。

「ところでアルファ、副団長が一回顔出せって言ってたよ」

「うえ、行きたくなーい」

 台詞と裏腹に、アルファはぽんとソファから立ち上がった。

「デルタ、よろしく」

「はいはいっと」

 心細い、と書かれたユプシロンの顔に、アルファはにっこりと笑って見せた。

「すぐ戻ってくるから!」

「多分お説教でボロボロになって帰ってくるよね」

「行く気なくなること言わないでよ」

 文句を残して、少女騎士は部屋を後にする。途端に顔を引き締め、大きく息を吐いた。

 用件は、もうとっくに分かっていた。デルタも知っているだろう。今は敵を作るべきではないと分かりながら、アルファは顔を陰らせた。

「うちは、姫様の騎士、なのに」

 それでも、低くはない立場がそれだけであることを許さなかった。



「行ってまいれ」

 やはりそう返すのか、と騎士は思った。

 小柄な少女でありながら、大剣を軽々と振り回すほどの力を持つアルファ。彼女と呼吸を合わせ、サポートを務められるデルタ。ごく少人数で高い成果を期待出来るからこそ、厄介な案件が回ってくることもあった。

 そして、国のためであれば姫君は己を殺す。分かっていたからこそ、ふたりの騎士は対面の主に何も言えなかった。

「妾のことは、気にするでない。そなたらは任務に励めよ」

「……っ」

 叫びかけたアルファを制したのは、相棒の少年の腕だった。

「デルタ」

 非難の響きにも狼狽えることなく、デルタは正面を見ていた。

「出来るだけ早く、帰ってくるよ」

 姫君の笑みがひどく脆く形作られたものと分かっていても、そう言うしかなかった。

 ふたりの騎士の功績は、主たる姫を助けることにも繋がった。それを全員が理解していた故に、ふたりは発たざるを得なかった。

 多少の危険も省みず、考え得る最速の手段を選んで、三日。たったそれだけの、ただ当事者にとっては遥かに長かっただろう時間を経て帰ってきたふたりを出迎えたのは、


 主の消えた部屋だった。


「どうして」

 茫然としていたデルタを引き戻した、小さな呟き。

「どうして、うちは、……ひめ、さま」

 表情の死んだ少女の腕を、デルタは引いて走り出した。

「探すよ」

 王宮に騒ぎの気配はない。ことが露見していないと踏んだデルタは、可能性の糸を手繰り頭を巡らせた。

 人通りの多いルートを除外し、露見しにくい場所のうち最も近いものを目指す。迷いなく進む斜め前の背中を見て、引かれるままだったアルファの足が力を取り戻していった。

徐々に上がっていく速度で最上階まで、そして静まり返った廊下を勢いよく曲がる。

 その先、長く伸びた渡り廊下の先にある扉が開いていた。それを捉えたデルタが口を開こうとした、横を追い越しアルファが飛び出す。

「――来るでないわ!」

 その足を、鋭い言葉が貫き縫い止めた。

 扉型の暗闇から、その声の主が歩み出る。紺碧から銀に伸びる髪は結われないまま長く垂れ、部屋着のワンピースに素足のまま絨毯を踏んでいた。

「姫、それは」

 デルタの訝しむ言葉は、ユプシロンの持つ物に向けられている。

 それは、姫君の身の丈と同じほどの長さの杖であった。全体が紫がかった銀の金属で作られ、鳥籠をモチーフにした先端に曇った輝石を填め込んでいる。

 塔に安置されていたそれを、ユプシロンは縋るように両手で握り締めていた。俯いた顔を窺うことは出来ず、開いた距離を詰められないままアルファは叫ぶ。

「待たせてごめん、……でも、うちは!」

 再び駆け出そうと脚に力が込められる。それにユプシロンが身を竦め、

 ――イヤ、ナンデショウ?

「……叶う、ならば」

 幻聴じみたノイズに呟き応えた、瞬間に空気が淀んだ。輝石の内側から発せられた気配に反射的に銃を抜いたデルタは、しかしその引き金を引けなかった。

「あ」

「っ、アルファ!」

 淀んだ空気が殺気に変わる、その寒気にデルタは手を伸ばす。相棒の小さな体を引き寄せた、庇った背中を衝撃が殴りつけた。

「ぐ、ぅあ」

 苦痛に呻く声は轟音に掻き消される。杖が放った衝撃の塊は、姫君を中心に周囲を殴りつけた。

 形の無い破壊力は、石造りの壁も絨毯の敷かれた渡り廊下も容易く打ち砕いた。背後の塔が瓦礫と化して落ち、塵埃が舞い散る。

「……え」

 ぐったりともたれかかる少年を抱えた、アルファの顔に何かがぽつりと当たった。

 砕けた建物の端から見えていた空に、黒々とした雲が呼ばれたように立ち込める。たちまち降り注ぎ始めた雨は、雷を伴って激しく打ち付けた。

貼り付けた金属板ごと革鎧を裂き、背中に深く刻まれた傷跡を雨粒に抉られてデルタが呻く。その声が茫然としていたアルファを我に返らせた。

 ごめん、と言いかけたのを飲み込み、濡れていない背後へとデルタの体を横たえる。そうして改めて振り向いた深紅の大きな瞳は、ようやく光景をはっきり把握した。

 本来繋がっていた渡り廊下は、崩れ落ちて足場を二つに分断していた。途切れた廊下の向こうで、杖を携えたまま立ち尽くす体を豪雨が打ち据えている。

息をひとつ吸って吐き、アルファは呼んだ。

「ひめさまっ」

 真っ直ぐな声は嵐の中を突き抜ける。

「待ってて、今そっちに」

 水を含んだ絨毯をブーツが踏んだ、飛び移ろうとしたアルファの腕が掴まれた。

「無茶、だ」

「はなしてよっ」

 痛みに絶え絶えの声で、それでも冷静に制止したデルタの手を咄嗟に振り払いかける。しかし力任せのそれをギリギリで思い留まって、

「じゃなきゃ」

 代わりに強く見据えた先で、ひとり佇む人影が緩やかに首を横に振った。

「アルファ」

 囁くような声音は何故か騎士の耳にも届く。揺れる長い髪は曇天の下では曖昧な色に見えた。それが、全ての元凶であるというのに。

「もう、よいのじゃ。妾は、……もう」

 その合間から覗いた瞳は、酷くかなしげだった。

「疲れてしもうた」

 その言葉が最後だった。

 金属製の杖が光を帯びる。姫君の背に生じた歪な形の翼が、強く空気を叩いた。大きな翼は重量など欠片もないように宙に浮き上がり、それを持つ者の足も床から離れる。

「まって、まってよ」

 雲に閉ざされた空に運ばれて遠ざかっていく姿に、小さな手が伸ばされる。阻む風と雨を突き抜けんと願うように、少女は叫んだ。


「ひめさまぁ――!」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る