第3話 17歳から21歳、人間

 山を抜けることは決して容易ではなかった。

 水や食料を持たない赤の体力は徐々にすり減り、冷気は体温を奪った。

 赤にとって、外界は12年ぶりだった。自由の箱で暮らしている間、敷地の外に出たことは一度としてなく、山の地理など知る由もなかった。


 赤はとにかく歩いた。本能的に、山を下れば街に出ると考え、とにかく下り坂を探したが、時には上り坂に直面し、上ることを余儀なくされた。

 日が落ち、月が上り、また日が昇る。それが3度繰り返された。

 4度目に日が落ちた時、赤は意識を保てなくなり地面に突っ伏した。霜の張った土はあまりにも冷たく、赤の体温低下は加速度を増した。

 薄れゆく意識の中、赤が思い浮かべたのはかなこでも・健司でもなく、かつての父の顔だった。


◇◆◇


 気が付くと、赤はベッドの上で横になっていた。赤の視線からは、木製の壁、レンガ造りの暖炉、二ホンジカの頭のはく製が見えていた。

 実際は他の物もちらほら見えていたが、赤の知らない物だったので、言語化はできなかった。

 赤は、この部屋が子供のころ絵本で見た、山小屋なのではないかと推測した。


 身体は金属の紐できつく縛られているかのように動かなかった。赤は試しに唸ってみた。

 赤の唸りは部屋中に低く響いた。口は動かないが、発声は問題ない様だった。


 唸り声に反応し、足音が聞こえた。足音は赤に近づき、そして赤の前に人が現れた。人は赤を覗き込んだ。


「おお、目を覚ましたか。お前、あんなところで何をやっていたんだ。今にも死にそうだったぞ。」


 男の口調から、彼が喜んでいることがわかった。

 男は頭、口、髭に大量の毛を蓄えていた。服の上からでも、鍛えられた体であることが分かった。


「その様子じゃ、まだ動けんだろう。しばらくゆっくりするといい。」


 男はそれから三日三晩、赤の身の回りの世話をしてくれた。昼は外に出ているようだったが、朝夜は赤の口に鹿肉のスープを流し込み、排泄物で汚れたシーツを毎日取り換えてくれた。


 四日目の朝、赤は自力で立つことができるようになっていた。体はまだ少し固かったが、日常生活に支障をきたさない程度には回復していた。


「助けていただき、ありがとうございました。」

「すっかり元気になったな。それで、あんなところで何をしていたんだ?」


 本当のことを言おうか悩んだが、赤は男を信頼し、自由の箱にロボットとして住んでいたこと、そしてそこから逃げ出してきたことを抜き出して説明した。

 男は最初驚愕の表情を浮かべていたが、後半は真剣味を帯びた眼差しで、じっと赤のことを見ていた。


「大変な人生だったな。よくわかった。」

「僕は、一人の人間を探しています。外見はロボットですが、彼女は人間としてあの施設で育ちました。彼女が今どこで、何をしているのか、どうしても知りたいのです。」

「…当てはあるのか?」

「いいえ、彼女は出ていくとき、僕に何も告げなかったし、そもそも彼女が消えてから10年が経ちます。」


 男は難しそうな表情を浮かべ、いびつな形のマグカップに注がれたコーヒーを口に流し込んだ。そして答えた。


「世の中はこの10年で大きく変化した。例え当てがあったとしても、お前の言う彼女に会うことは難しいかもしれんな。」

「変わった?」

「実は俺も、10年外界から隔離されていたんだ。昔いろいろあって、警察の世話になってな。といっても牢屋ではなくて、俺は精神病を患っていたっていうもんで、精神病棟で治療を受けていたんだ。そこで、10年お世話になった。」

「10年後、あなたはその病院を出ることができたんですね。」

「ああ、もちろん医師の診断結果をもってしてだ。お前みたいに無理やり出てきたわけじゃない。…ああすまない、無神経だったな。」


 すまなそうに頭をむしる。無造作に生えた長髪から、木くずやら、ふけやらが飛散した。


「構いません。それより、10年後の世の中はどのように変化していたんですが?」


 男が言うには、街は全て都市化され、見たこともない乗り物が道路を、空中を駆け回っていたそうだ。都市を歩くのは8割がロボットで、人間は家に引きこもっているらしい。

 

「10年前、AI技術、ロボティクス、バイオテクノロジーが急速に発展した2030年代は、家政婦型のアンドロイドが流行っていてな。俺も家のことをやらせていた。その時、ロボットが担っていたのは、一家の家事程度だったんだ。」


 目の前の原始的な様相をした男が、赤の知らない横文字を乱立している様子は、不似合いで面白かった。


「それが、俺が帰ってきた2045年には、ロボットは家事以外の領域を人間から奪い取っていた。AI性能が向上し、人間より正しい判断をするロボットに、政治・経済・福祉、諸々を委任するようになったようだ。結果、人間は働かなくてよくなり、街中に人の姿は見なくなった。」


 赤は政治や経済に詳しくないが、何となく人間が働く必要のない社会になっていることが分かった。

 赤は今までの人生で一度も働いたことはない。これからも働く必要はないのだろうか。

 人間として旅立った、健司はどうなったのだろう。働き口は見つかったのだろうか。


「俺はその世の中をどうしても受け入れられなかった。世間から逃げ出すために、こうして山奥に小屋を構え、今は狩猟を中心に自給自足の生活をしているんだ。散策中にたまたまお前がくたばっているのを見つけたってわけだ。」

「そうだったんですね、なんと言うか、そういう意味では世の中が変わっていてくれてよかったのかな。」


 男は大笑いした。赤も笑った。


「それで、これからどうするんだ。」

「まずは、今の社会の生活に慣れてみたい。でもその前に、あなたに恩返しをしなければ。」

「ああ、恩返しなんていいんだ。これはある意味俺の罪滅ぼしでもあるんだから。」

「罪滅ぼし?」

「お前にはあまり関係のないことだ。気分を害したくないし、気にしないでくれ。それより、新しく生活をするならこの山を下った先の街で暮らすといい。街までは俺のトラックで送ってやろう。」

「ありがとう。」


 次の日、男のトラックで赤は山を下った。街に出ると、確かに男が言ったような光景が広がっていた。赤が健司だったころの情緒は、この世界からは、不要なものとして排除されていた。

 トラックは病院の前に止まった。車を降りると、男が車窓を開き、手を差し伸べた。


「この病院の医師を尋ねると言い。俺の名前を言えば、きっと世話をしてくれるだろう。」


 赤は手を握り返した。


「あなたの名前は?」

「ああ、言っていなかったな。俺の名前は金井浩司だ。お前は?」

「僕は赤です。苗字は分かりません。」

「そうか、赤、達者でな。」


 男は都市の向こうに消えていった。


 赤はそれから、医師を頼り、世間を知り、19歳の時独立した。

 そして21歳の夏、健司を探す旅を始めた。

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