プロローグ
開演時間ちょうどに照明が落とされ、能楽堂全体が暗闇に包まれた。数呼吸する内に、笛の音が静かに鳴り響き、それを合図に舞台の手前の暗闇に明かりが一つ灯る。それはゆらゆらと揺れる蝋燭の灯りであった。
黒子により、他の蝋燭にも次々に点灯されて、次第にその数を増して行き、舞台と橋掛かりの周辺は、揺れ動く淡い明かりで囲まれた。橋掛かりの匂欄やその脇に植えられている3本の松も、揺れる灯りに浮かび上がっている。
舞台の上はまだ暗い影の中にあったが、照明装置が入って、次第に明るくなり囃子方の姿がようやく分かるほどになってきた。笛の奏者の顔も見て取れるようになった。きりっと引き締まった顔をした、中々の美男子である。
今夜は理紗の芸大時代の同窓生であるこの能管奏者から声を掛けられて、こうして二人して観能しているのであった。能「鉄(かな)輪(わ)」は安倍晴明(あべのせいめい)を題材にしたものであり、以前から観たいと思っていた演目であったから、諒輔にとっては渡りに船であった。
“この笛の奏者が理紗の大学時代の元カレか?”とつい勘繰り、隣に座っている理紗の様子をそっと窺い見た。しかし客席は舞台より更に暗く、理紗の和服姿の輪郭は見えても、表情までは読み取る事が出来なかった。
小鼓、大鼓、それに太鼓なども加わった囃子方による演奏が次第に急調子になって、はたと止み静寂が広がった。
橋掛かりの奥の幕が上がり、貴船神社の社人が登場してきた。能独特の摺足で舞台中央に進み出ると口上を述べ始めた。
「かように候ものは、貴船の宮に仕え申す者にて候、さても今夜不思議なる霊夢を蒙りて候、その謂われは、都より女の丑の刻参りをせられ候に、申せんと仰せらるる仔細、あらたに御霊夢を蒙りて候程に、今夜参られ候はば、御夢想のようを申さばやと存じ候」
社人の口上が終わると、笛の“ぴぃーっ”と甲高い一声がして、囃子が再開された。その後、笛が鳴り止み小鼓と大鼓が「ようっ」「おうっ」と呼応しながら、緩やかな調子で打ち合っていたが、やがて嫋々たる笛の音色が加わった。同時に橋掛かりの幕が上がり、静々と被衣姿の女が歩み出てきた。橋掛かりの中ほどに至ると歩みを止め、観客の方に向き直り口上が始まった。被衣に隠されて顔は未だ見えない。
「日も数ぞいて恋衣、日も数ぞいて恋衣、貴船の宮に参らん」
女は貴船神社に行く道すがら、不実な夫を責めて言い募り、やがて神社に着く。
「通い馴れたる道の末、夜も糺の変わらぬは、思いに沈む御菩薩(みどろ)池(いけ)、生けるかいなき憂き身の。消えん程とや草深き、市原野辺の露分けて,月遅き夜の鞍馬川、橋を過ぐれば程もなく、貴船の宮に着きにけり」
女がやって来たのを見て、社人が話しかける。
「いかに申すべき事の候、御身は都より丑の刻参りめさる、御方にて渡り候か、今夜御身の上を御夢想に蒙りて候、御申しある事は早や叶いて候、鬼になりたきとの御願いにて候程に、我が家へお帰りあって、身には赤き衣を着、顔には丹を塗り、頭には鉄輪を戴き、三つの足に火を灯し、怒る心を持つならば、忽ち鬼神と御なりあらうずとの御告げにて候、急ぎお帰りあって、告の如く召され候へ、なんぼう奇特なる御告げにて御座候ぞ」
そう社人に告げられるが、女は自分のことではないと白を切る。
「これは思いも寄らぬ仰せにて候、わらわが事にてはあるまじく候、定めて人違へにて候べし」
「いやいや、しかとあらたなる御夢想にて候程に、御身の上にて候ぞ、かように申す内に何とやらん恐ろしく見え給いて候、急ぎ御帰り候へ」
社人は、「恐ろしや、恐ろしや」と叫びつつ、一目散に逃げ去る。
「これは不思議の御告かな、まずまず我が家に帰りつつ、夢想の如くなるべし」
女は始めてここで被衣を脱ぎ、泥眼の面を付けた顔を現す。地謡が女のその後の変化を描写する。
≪言うより早く色かわり、気色変じて今までは、美女の容(かたち)と見えつる、緑の髪は空(さか)さまに。立つや黒雲の、雨降り風と鳴神も思う仲をば離けられし、恨みの鬼となって、人に思い知らせん、憂き人に思い知らさん≫
美女から鬼に変ずる様を表現しつつ、走るようにして橋掛かりから奥に消える。
前場が終わると、準主役の登場を告げる囃子事があって、女の前夫が先ず登場し、次に安倍晴明が現れる。前夫は素袍上下に熨斗目の装束、晴明は、風折烏帽子に狩衣姿である。後場の場面は、最初が安倍清明の屋敷であり、途中から下京辺りの男の屋敷に移る。最後に鬼女が登場し、以下のように展開して行く。
女の前夫は、連夜の悪夢に悩み、著名な陰陽師の安倍晴明を訪れ、晴明から原因は別れた女の呪詛であり、今夜にも命が尽きるであろうと告げられる。男は驚き、晴明に命乞いをする。晴明はこれを受けて男の屋敷に出向く。
晴明は祈祷のための高棚に男女の形代、御幣などを用意し祝詞をあげる。
晴明が祈祷をすると、神々が呼応して雷鳴稲妻が激しく起る。
そこに鉄輪を頭に戴き、打杖を手にした鬼女が現れる。頭に乗せた鉄輪の脚に火を灯すと呪詛を吐く。生成の面が実に不気味である。
「恨めしや御身と契しその時は、玉椿の八千代、二葉の松の末かけて、変わらじとこそ思いしに、などしも捨ては果て給ふらん、あーら恨めしや」
女は浮気男の命を奪おうと「いでいで命を取らん」と近付き形代に打ちかかる。しかし、晴明が設えた高棚の御幣に神仏が宿っていて命を奪うことが出来ない。
「殊更恨めしき」と呟き、無念の想いを込めて舞うと、姿は消え去って行く。
鬼女が舞台の奥の暗がりに姿を消した。ややって、客席から拍手が湧きあがり、蝋燭能「鉄輪」は終演した。
理紗は能管奏者の友達に挨拶してくると楽屋に行ったので、諒輔はロビーで待つことにした。
「お待たせ」
理紗が戻って来た。
「早かったね」
「人を待たせているからって言って早く帰って来たの」
理紗はクスリと笑い「彼ったらね、『待たせているのは恋人かって』聞くから『そうよ』って答えたの」
諒輔は満更でもなく、内心にんまり笑うが表面は平静を装う。
「そうしたら彼がね『そいつに伝えとけ』って言うの……聞きたい?」
「どうせろくなことじゃないんだろう?」
「彼はこう言ったの……『俺はまだ理紗のこと諦めたわけじゃない』って」
理紗は嬉しそうに「じゃ、帰ろうか」と言いつつ諒輔の腕に自分の腕を絡めた。
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