ミラージュ、約束の場所、霧の向こう側

 霧の向こう側から懐かしい声。

 誰とは言わない、ただ愛しい声。

 全てを思い出し今更だけど、大切さを理解できたから、すぐにでも君の元へ一歩進みたい。

 でもこの橋の上には一つの約束。


「分かってるでしょ? この霧のこっち側には来てはいけないこと。霧の中にいる人を見ようとしてはいけないこと」


 約束はそれだけ。でもその約束が重くて。


「どう最近は?」


 僕は湧き上がる思いが整理できなくて、うまく言葉にできないけれど、それでもようやく出会えたこの約束の場所で、さりげない日常会話を挟んでみる。


「ああ、おかげさまで元気だよ。君がいなくてもうまくやれてるさ」

「ふーん。本当?」

「もちろん」


 もちろん嘘さ。

 でも悪くない嘘だろう?


「君こそ元気かい?」

「ええ、それはまあ。ねえ、なんか緊張してる? 少しだけだけど、声が変わったような」

「そりゃあずいぶん時が経ったからね」


 君の声は変わってないね。

 とは言えないし、言わないでおこう。


「霧がすごくて、周りが全然見えない」

「見える必要のないものを隠してくれるからちょうど良いわ」

「見える必要のないもの?」

「そう。今のあなたの顔とかね」

「おいおい。からかってるのかい?」

「だって悲しそうなんだもの」


 お互い見えてない。

 君の姿は見えてない。

 かなり久しぶりなのもあるが、元々ミステリアスな彼女だ。

 何を考えてるのか、いまいち掴めない。

 でも君は何もかもお見通しなようだ。


「時間だね」


 だが少しだけ僕にでも、君の機微を読み取れたよ。

 その言葉が寂しそうだったからね。


「確かに、時間みたいだ。哀しいね」

「うん。哀しいね」


 霧の向こう側。

 思わず足を踏み入れたくなるけれど、約束の場所。破ることはできない。ここで一つの約束を破れば、他にも君と重ねてきた約束全てを壊してしまいそうで。

 たった一つの約束も破れない。


「でもそれできっと良いのよ。寂しいくらいが、哀しいくらいが、また出会いを呼んでくれる。そんな気がするから」


 君はそう言う。

 僕は苦しくも、その橋を歩いていく。もちろん霧とは真逆の方向の。

 でもそれで終わりたくなかった。


「こんぐらいなら約束も許してくれるさ」


 霧に手だけ伸ばす。


「えっ」

「手を繋ごう。大丈夫。誰も見てない」


 僕の手を誰かが握った。

 霧という壁を通り抜けて二人の心は繋がった。

 そんな気がしてる。


「ありがとう」

「こちらこそ」


 冷たいその手なんか関係ないくらい、優しい想いが温もりを与える。


「また会おう」

「また約束なんかして大丈夫?」

「ああ大丈夫さ。果たせる約束しかしない」


 しばらく僕はその手を離さなかった。

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