第十一章 宮内庁
数日後、神崎の運転するリムジンで皇居に向かった。同乗しているのは諒輔、理紗、葛城である。今日の理紗は訪問着を着ており、諒輔にとっては見慣れた和服姿であった。諒輔は葛城からモーニングコートを着用するよう言われたが、普通の背広で勘弁して貰った。葛城は勿論モーニングコート姿である。
坂下門で皇宮警察官のチェックを受け、リムジンは皇居に入り宮内庁前の車寄せで停車した。三人は車から降りると受付で来意を伝えた。今日は宮内庁式部官長に会い、諒輔の財団会長就任の承諾を得るためにやってきたのだ。財団法人日本伝統行事研究保存協会は宮内庁が所管官庁となっており、会長就任にはその承諾が必要だったのだ。
一行は応接室に案内され、お茶が供されたが、『式部官長は会議が長引いておりしばらく待っていただきたい』とのことであった。
「私、実はね、以前宮内庁に来た事があるの」
理紗は皇居に入ってから、宮内庁の応接室に来るまで少しも物怖じする様子を見せなかった。諒輔には宮内庁の様子は既視感(デジャブ)が有った。忠彬の記憶を引き継いでいるのだから当然であろう。しかし理紗が、先ほどから平然としているのを、不思議に思っていたところだったのである。
「へえ、それは意外だな。またどうして?」
「芸大時代の友達に雅楽を専攻していた人がいてね。その人、宮内庁式部職の楽部に就職したの。それで宮内庁で開催される雅楽演奏会に招待してくれたと言うわけ」
「ふーん、その人って大学時代のボーイフレンド? それとも恋人?」
諒輔はつい、口走ってしまった。
「さぁ、どうかしら」
理紗はわざと悪女めいた笑顔をして諒輔の顔を覗き込んだ。葛城はそしらぬ顔でそっぽを向いている。その時「大変お待たせいたしました」と言いながら顔を紅潮させた肥満体の男が応接室に入って来た。葛城は何度かこの人物に会ったことがあるらしく、双方を紹介した。諒輔に渡された名刺には“宮内庁式部官長 安倍豊淳”とある。この人物は安倍本家筋にあたる者でいわば表土御門の当主とも言うべき存在であった。一通り挨拶が済むと葛城が切り出した。
「この度、忠彬様ご逝去あそばされ、こちらの三輪諒輔様が新しい裏土御門家を継がれました。つきましては財団会長への就任に付き、所管官庁として、また安倍宗家としてご承認賜りたく参上いたしました」
諒輔も葛城に習い頭を下げる
「本来なら、そちらの安倍理紗さんが引き継ぐべきだったのでしょう。あ、いや事情は聞いております。理紗さんが引き継がなかったことを責めているわけではありません。えぇっと、理紗さんは、三輪諒輔さんが陰の長者を引き継ぎ、財団の会長になることを承知しているのですな」
「はい、勿論承知しています。私は諒輔さんが陰の長者を引き継いでくれた事を、心から感謝しています」
「そうですか、しかしですな……いや、安倍一族の主だった者に内々で相談したのですが、安倍の血を引かぬ者が陰の長者になれる訳が無いと言いまして、あなたが陰の長者になったということを信用しないのです」
諒輔には豊淳の心を読まずとも、豊淳本人が諒輔を信用していないことが手に取るように分かった。
「それでは、今この場で、私が陰の長者であることを証明して見せましょう」
「ほう、それは」
豊淳は予想もしない諒輔の言葉に呆気にとられている。諒輔はそんな豊淳に構わずおもむろに印を結び、呪を唱えた。
豊淳はしばし呆然としていたが、応接セットのテーブルに蟻の様に小さなものが湧き出したのに気付いた。それらは次第に大きくなって、大豆ほどの大きさになり、あるものは人となり、あるものは馬となり、やがて行列となって動き出した。それらは更に大きくなって行き、男は狩衣などの束帯姿、女は十二単などの女房姿で、それぞれが葵の葉を飾っていることが分かる程になった。『あぁ、これは葵祭りの行列だ』と豊淳は理解する。葵祭りは宮内庁が深く関わって行われる行事であり、豊淳自身も何回か行列の一員として参加しているのですぐ分かったのだ。
最初、蟻位だったものが今やゴルフボール大になっていたが、そんな行列の中に、牛車が現れた。赤い引き綱を手にする二人の牛童の姿もはっきりと見て取れた。牛車は勅使が乗る豪華な御所車である。と見る間にその御所車は急拡大し応接室一杯になる程の大きさになった。
周囲はいつの間にか溶暗に溶け込んでいたが、その暗闇から水干姿の二人の牛童が現れた。その牛童の一人が牛車の後方の御簾を上げ、もう一人が踏み台を据えると、恭しく辞儀をして乗り込むように促した。
「どうぞ、皆さん牛車にお乗り下さい」
諒輔はそう言うと理紗の手を取って、最初に牛車に乗せた。次に豊淳、葛城、最後に諒輔が乗り込んだ。豊淳は驚きの余り、声を上げるのも忘れて諒輔に言われるままに従っている。皆が乗り込むと、牛童は御簾を下げ、踏み台を取り去った。
「よろしいですか。これから何があっても、何を見ても決して声を上げてはなりません。くれぐれもこれだけは守って下さい」
諒輔が言い終わると、牛車はゴトリと動き出した。諒輔は理紗の肩を抱いて耳元で囁く。
「理紗さん、何があっても心配しないで下さい。僕が付いていますから」
牛車はゴトゴトと進んで行く。豊淳は脇の小窓の御簾を上げて外を見たが暗くてよく分からない。しかし目を凝らしてそこがどうやら京都の町並みの風景と見当を付けた。
「ご主人様、奴らがやって参りました。如何いたしましょうか」
牛童の一人が牛車の外から諒輔に向かい言上する。
「うむ、牛車を脇に寄せ停止させよ。お前達は身を隠しておれ」
「畏まりました。仰せの通り致しまする」
牛車はギシギシと音を立てて脇に寄ると停止した。
やがて前方から、がやがやと人の話す声や下卑た哄笑が聞こえてきた。がちゃがちゃと物が打ち合う音に混じって女のすすり泣くような声も混じる。葛城は恐ろしくなって思わず声を上げそうになった。諒輔は口に手をあて「シィー」と葛城を制止した。
『葛城さん聞こえますか。テレパシーで話しかけています。恐ろしかったら眼を塞ぎ、耳も手で押さえていて下さい』
葛城は何度も頷いて見せ、眼をつぶり、耳を手で覆った。
物音は更に大きくなり、近付いてくる者達が話す内容を聞き取れるほどになった。
「なんじゃ、良い匂いがするわい」
「おう、そう言われてみれば、麝香、白檀にも勝る良い匂いじゃな」
理紗は自分の香水が匂うのだろうと気付き、恐怖で震え、諒輔にしがみ付いた。豊淳は御簾の隙間から近づいてくる者達を凝視していた。恐ろしくて仕方ないが身体が凍り付いてしまい、眼が離せなくなっていたのだ。
豊淳の目に映った者どもは、正に悪鬼の群れであった。痩せさらばえた身体に襤褸を纏った者は、もぎ取られた人の腕を握っており、それを齧りながら歩いて来る。またある者共は、狩った猪を棒にぶら下げるように、人の手足を棒に縛り付け運んでいた。またある者は、全裸の女を逆さに肩に担いでいる。女の腹や太股は抉り取られており、見るも無残な有様であった。
「おい、この辺りじゃ、この周りをよく探せ」
ひと際獰猛な形相の者が下知すると、悪鬼どもは鼻をひくつかせて牛車の周りを嗅ぎ回り出した。ここに至り豊淳は「ひぃー!」と喉を震わせた。同時に金縛りにあったような状態が解かれて、その場に崩れ落ち、そして気を失った。
「豊淳様、もう大丈夫です。目を覚まして下さい」
頬をひたひたと葛城に叩かれて、豊淳は目を覚ました。
「あぁ、なんて恐ろしい夢を見てしまったのだろう」
まだ、意識が朦朧としているようだ。
「確りして下さい。ここはどこか分かりますか」
豊淳は周囲を見渡した。
「あぁ、ここは……」
「私達の事も、分かりますね」
豊淳は諒輔、理紗、葛城の顔を順番に見つめ頷いた。
「確かに……確かにあなたは陰の長者です。疑う余地は有りません。先程の失礼深くお詫びいたします」
「いや、良いのです。あの光景は我らが祖、晴明公が師の賀茂忠行様に鬼どもが来るのを告げられた折の光景を、晴明公の記憶に基づき忠実に復元したものです」
諒輔は今昔物語の一説を語った。
「晴明若かりける時、師の忠行が下渡(しもわたり)に夜行(やぎょう)に行ける供に、徒歩にして車の後に行きける、忠行車の内によく寝入にけるに、晴明見けるに、艶(えもいわ)ず怖き鬼共車の前に向(むかえ)に来ける。晴明此れを見て驚きて、車の後に走り寄りて、忠行を起こして告ければ、其時にぞ忠行驚きて覚て、鬼の来たるを見て、術法(ずっほう)を以て忽に我が身をも恐れ無く、供の者共をも隠し、平かに過にける――――」
「今昔物語には鬼と記されていますが、あれ等は鬼でも魑魅魍魎でもなく人間です。当時の京の都は、夜盗、押込み、人さらい、死人喰いなどが溢れていたのです」
「うーむ、人間ほど恐ろしいものは無いということですな……」
豊淳は諒輔の説明を受け絶句した。
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