第五章 京都
諒輔にとり京都は無縁の地ではない。母親の実家が京都であり、母が亡くなる前は年に数度、母に連れられて京都に来ていたのである。
母は諒輔が小学校六年生の時に、病気のため亡くなったが、医師である父は母を助けられなかったことを大変悔やんだ。当時父は大学病院勤務で将来を嘱望された外科医であった。その為仕事は多忙を極めており、家族のことはその一切を母に任せ切りであった。母が病に冒された時も、仕事に追われてその身体の異変に気付くのが遅れてしまったのだ。
母が亡くなった後、父は大学病院を辞めて開業医となり生計を立てていたが、諒輔が大学に進学するのを待って、沖縄の離島の診療所に赴任したのであった。
そのような経緯もあって母の思い出が詰まった京都に行くことがなんとなく躊躇われていたのであった。諒輔にとり今回の京都行きは久々のことである。
諒輔が京都を訪れた日は七月の上旬で、梅雨明けの時節の暑さは耐えがたいほどだった。堀川通りには陽炎がゆらゆらと立ち昇り、道路に描かれた白い歩道標識が眩しく光っていた。諒輔がタクシーを降りたこの辺りは京都市街の北西部にあたるところで、西陣と称される地域である。古い町屋作りの建物が点在する京都らしい一画で、訪れた先も小振りながら町屋作りであった。
玄関の表札には“安倍”と言う小さな表札が掲げられており、脇には”西陣倶楽部 源氏物語教室”という看板が掛けられていた。吹き出る汗を拭うと格子状の引き戸を開け、薄暗い奥に向かって声をかけた。
ややあって近寄ってくる足音が聞こえ、現れたのは作務衣を着た女性であった。髪はブルネットで瞳は青みがかった灰色をしている。
「昨日電話をした三輪諒輔です」と名前を名乗り、更に用件を話そうとすると「そこは陽が当って暑いでしょう。どうぞ中に入ってください」と外国人と京都人の両方が入り混じったような微妙な抑揚で言い、諒輔を土間に招じ入れた。建物の内部は薄暗いが、風が吹き抜けひんやりとしている。
「ようお越しになりました。安倍クリスチーナです」と自己紹介し、下駄を脱いで式台に上がり諒輔を居間に案内した。居間は民芸風の箪笥や座卓が置かれ、開け放たれた障子の向こうは坪庭となっていて、濃い緑が逆光に浮かんでいる。
諒輔は勧められるまま、座卓の前に座ると、挨拶もそこそこに用件を切り出した。忠彬が末期がんに罹患し余命幾ばくもないこと、孫娘に会いたがっていることなどを話した。
「これがお義父様からお預かりしてきた書状です」
クリスチーナは受け取った書状の封を切り、水茎の跡も鮮やかな文字をみると顔を輝かせた。
「あぁ、なんて麗しい筆跡でしょう」
クリスチーナが平安文学を研究していることを知っている忠彬は、平安風の書状としたのであろう。反対側に座る諒輔からも開かれた書状の一部を見ることが出来たのだが、情けない事にその文字は一切判読不能であった。
熱心に読んでいたクリスチーナだったが、途中からは時々読むのを止めて溢れる涙を手の甲で拭った。書状を読み終えたクリスチーナは赤く充血した目で諒輔を見据えると「承知しました。娘の連絡先をお教えします」と言って立ち上がると部屋の隅に行き、文机の前に正座し何やら書き物をしていたが、戻ると諒輔に和紙に書かれたメモを手渡した。
「これが娘、安倍理紗の連絡先です」
「ありがとうございます。お義父様はさぞお喜びになることでしょう」
責任が果たせた安堵感から諒輔は満面の笑顔であったが、クリスチーナは厳しい表情で続けた。
「ただ、理紗がお義父様に会うかどうかは本人が決めることです。忠成さんは生前、娘にお義父様は恐ろしい人なので、決して近づいてはならないと、常々言い聞かせていました。ですから、お義父様が望んでも理紗は会いたがらないかもしれません」
「恐ろしい人と言い聞かせていた……」
諒輔は、忠彬、忠成父子の相克の深さを垣間見た思いで表情を引き締めた。
「それからお義父様の命を救っていただいたそうですね。手紙にあなたのことも書かれていました。私からもお礼申し上げます」
「あ、いや、お礼を言うのはこちらの方です」
諒輔は居住まいを正すと、改めて礼を述べ辞去するため立ち上がった。
玄関を出ると、ギラギラと西日が照りつけており、薄暗い室内から出てきた諒輔はそのまぶしさに目を顰めた。そして日差しを避けて軒下に入ると、携帯を取り出し葛城に電話をかけた。
「あー諒輔さん、京都は暑いでしょう。ほんとお疲れ様です。で、どうでした?」
葛城は性急にまくし立てる。
「娘さんの連絡先を教えていていただきました」
「そうですか、そうですか。それは良かった。早速会長にお伝えします」
「えぇ、でも……」
娘の理紗は会ってくれないかもしれないと言うべきか躊躇する諒輔に葛城が畳みかける。
「諒輔さん、お疲れでしょう。今日は京都に泊まってゆっくりなさって下さい。詳しいことは明日でいいですから」
腕時計を見た。今から直ぐ帰っても東京に着くのは午後十時を過ぎてしまうだろう。
「はぁ、そうですね。それではそうさせて下さい」
京都の暑さにぐったりしていた諒輔は素直に葛城の勧めに従うことにした。携帯を切るとタクシーに乗るため表通りに向け歩き出した。祇園祭りが始まり、西陣の各町内は宵山や山鉾巡行の準備をしているのであろう、遠く近く祇園囃子が聞こえる。ふと幼い頃の思い出がよみがえり、胸が切なくなった。
表通りに出てタクシーを拾うと、諒輔は行き先を下鴨神社と告げた。ホテルに行くのは後回しにして、糺の森を訪ねようと思い立ったのであった。糺の森は母への想い出が最も詰まった場所であり、長い間行くことを封印してきた場所でもあった。
タクシーを降りた時はようやく陽が傾き、鴨川から吹いてくる風の効果もあって、さすがの熱気も大分和らいでいた。原始の森の様相を今に伝えるという糺の森を歩きながら、諒輔は母の思い出に浸っていた。
「ちょうど今頃の夕暮れ時の事をね、逢魔が時って言うのよ」
母親は浴衣姿で、片手に団扇を持ち、もう片方の手で幼い諒輔の手を握っている。街は暮れなずみ家々の軒先に吊り下げられた提灯に次々に明かりが灯され、幻想的な街並みに変貌して行く。祇園囃子の音、さんざめき行き交う多くの人々の影、どうやら祇園宵山の光景のようだと記憶の底で諒輔は気付く。
「オーマって、お馬さんのこと」
諒輔が、母を仰いで問いかける。母はしゃがみ込み諒輔の頭を撫でながら「違うわ、逢魔って言うのはね、魔物に出逢うと言う意味なのよ」と優しく教える。
「ふーん、それじゃ、僕たちも魔物に出逢えるの」
テレビや絵本、ゲームなどに出てくる魔物しか知らない諒輔にとり、魔物は怖いと言うより、むしろ出逢ってみたい興味ある存在であった。
「そうね、逢えるかもしれないわ。あなたには、ご先祖さまの血が流れているからきっと魔物を見ることが出来るはずよ」
母がどうして、そのようなことを話して聞かせたのか記憶にないが、魔物に逢えるということを聞いて無邪気に喜んだことを今も憶えている。そして母はこう言ったのだ。
「お母さんが生まれた京都のお家はね、下鴨神社というそれはそれは古い神社と深い繋がりのある家柄だったのよ。明日はその神社に行ってみましょうね」
今、その下鴨神社の森にいるのだと、諒輔は感慨深げに周囲を見渡した。いつの間にか辺りは深い闇に包まれ、鬱蒼とした木々の向こうに参道の白色灯が狐火のように浮かんでいる。行く手から小川のせせらぎの音が聞こえ、まるで深山幽谷の地にいるかのようだ。何時になく感傷的な気分になった諒輔はまた遠い昔の記憶を呼び起こした。
母はその後も京都に行く度に、諒輔を連れて下鴨神社に行った。そして糺の森を二人で歩きながら神社の由来や先祖に纏わる話を色々してくれた。
中でも母が楽しそうに話してくれたのは葵祭りに関するものであった。中学・高校時代は毎年欠かさず葵祭に参加していたようで、母にとってそれは青春時代のかけ替えのない想い出だったのだろう。
「とても美しい行列でね、皆が古い時代の衣装を着ているの。私は綺麗な着物を着て腰輿(およよ)の脇を歩くのよ」
「えー、オヨヨって変なの」
「ふふ、可笑しいわよね。腰輿というのは女人行列の中で一番偉い人が乗るものなのよ」
オヨヨ、オヨヨと叫びながら跳ねまわる諒輔を見る母は実に幸せそうであった。
それからというもの諒輔は糺の森に来るといつも葵祭の話をして貰うようになった。母はせがまれると「諒輔は葵祭が好きなのね」と笑い、楽しげに葵祭に纏わる話を聞かせてくれるのだった。
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