第四章 病院特別室

 中元の季節は、栗原運輸にとって歳暮の季節と並んで最も忙しい時期である。仕事に追われて中々見舞いに行けなかったが、七月に入り学生アルバイトを雇った為ようやく諒輔の手が空いた。大分時期がずれ込んだが、気象庁が梅雨明けの発表をした今日、忠彬が転院した都内の病院を訪ねたのであった。

 

 病院の最上階にある特別室病棟ロビーは厚い絨毯が敷き詰められており、静かにBGMが流れていた。ロビーの壁面の一方は全面ガラス張りになっており眺望が素晴らしい。ホテルのフロントのような受付で用向きを伝えると、受付嬢は「お待ちしておりました。ご案内いたします」と言って先に立って歩き出した。

 特別室に通ずる入口でセキュリティ用のカードをスロットに差し入れ、更に奥まった一画にある部屋の前に至ると受付嬢はドアを軽くノックした。するとドアが中から開かれ、豪華な施設には場違いな貧相な男が現れて諒輔を中に招じ入れた。現れたのは、あの葛城事務局長である。

 案内された部屋にはベッドや医療機器は見当たらず、欧風の家具調度品が配されており、まるで高級ホテルのスイートのリビングルームのようであつた。その広い部屋の中央に忠彬が車椅子に座って待っていた。

 忠彬は大分痩せたようで一回り小さくなったように感じられ、諒輔は内心驚いたが表情には出さず見舞いの言葉を述べた。忠彬は重ねて礼を述べ、挨拶が一段落したところで改まった表情で切りだした。

「今日こうしてわざわざ来て貰ったのは、実は折り入って頼みたいことがあるからでの。勝手な申し出であることは充分承知しておるが、是非君に頼みたい」

「はぁ、なんでしょう」

 諒輔は怪訝な表情になる。

「急がねばならんのだ。時間が限られておる」

 いつになく切羽詰まった忠彬の様子に諒輔も真剣な表情で答えた。

「分かりました。私に出来ることでしたら……先ずはその頼み事の内容を説明していただけますか」

 諒輔の返事を聞いた忠彬は安堵した表情になると説明を始めた。その内容は以下のようなものであった。


 転院したこの病院で、葛城の勧めもあり怪我の治療の傍ら人間ドック検診を受けた。その結果、膵臓がんが発見され、更に悪いことにはすでに他の臓器に転移しており、手術は不可能であることが判明した。

 当初、忠彬に病名などは伏せられていたが、本人のたっての願いにより、膵臓がんであることが告知された。そして忠彬は、余命が数ヶ月であることを知ったのであった。

 忠彬は裏土御門の長として、受け継いできた記憶を何としても直系家族に引継がねばならないと思い焦燥した。しかし、一人息子は十数年前に交通事故で既に亡くなっており、引継ぐとすれば孫娘しかいない。

 その孫娘は東京にいるはずだが、住所などはわからず、ずっと音信不通である。しかし孫娘の母親が住む京都の住所は分かっているので、京都の母親を訪ねて、孫娘の連絡先を聞き出して欲しい――――

 

 忠彬は説明中も時折苦しそうな様子をしていたが、何とか一通り説明をし終えた。

「君にこんなことを頼むのは筋違いと充分承知しているが、これも何かの縁と思ってどうか頼まれてはくれないか」

 諒輔は突然の申出に戸惑って返事をせずにいた。

「京都の母親の連絡先などについては葛城が説明する。申し訳ないが、私は少し休ませて貰う、でどうだ、引き受けてくれるか」

 頼まれたら断れないと言う諒輔の性格を知っての申出だとすれば、これを引き受けるのは相手の思う壺とは思うものの、余命幾ばくもないもない老人の頼みとあれば引き受けざるを得まい。諒輔は承知した。

「会長、大丈夫ですか。すぐ看護師を呼びますから」

 葛城は諒輔に頭を下げると車椅子を押し別室に向かった。別室がベッドや医療機器を備え付けた病室になっているのだろう。

 ほどなく医師と看護師がやってきて、別室に消えた。入れ替わりに葛城が戻ってきて「抗がん剤の副作用で体調が優れないのです。お許し下さい」と涙ぐみハンカチで目頭を押さえた。

 葛城は母親の京都の住所と、電話番号と名前を教えてくれたのだが、その母親の名前は《安倍クリスチーナ》というものであった。不思議そうな顔をしている諒輔に「えーそうです、母親のクリスチーナはアメリカ人です」と説明した。

「京都大学に留学中に息子さんの忠成様と知り合い二人は恋に落ちました。でも安倍家の一人息子で、将来陰の長者になる者が、外国人と結婚することは許されないことでした。二人は会長の説得に耳を傾けるどころか、強く反発して同棲生活を始めたのです。そして子供を授かったのを機に二人は正式に結婚しました…… 」

 父子の間をとりもち和解するよう奔走したのは葛城であった。当時の事が思い出されたのか葛城は苦渋の表情で言葉を詰まらせた。

「クリスチーナさんは、忠成さんが亡くなられた後もアメリカに帰らなかったのですね」

 諒輔は説明の続きを促した。

「えぇ、その後もずっと京都に住んで、平安時代の歴史と文学を研究しておられます。現在は私立大学の講師などをされています」

「事情は大体分かりました。でもクリスチーナさんと安倍家とはずっと絶交状態だったわけですよね。私のようなものが出向いてお願いしても、簡単に娘さんの連絡先を教えてくれないのではないでしょうか」

 幾ら能天気の諒輔でも、これ位の事は察しがつく。

「はい、それは会長も案じておられまして、クリスチーナさん宛ての書状を書かれました。これがその書状です。結婚を認めなかった事など過去の様々な仕打ちについて率直に詫びると共に、伝統を継承する事の大切さを縷々したためたものと伺っております」

和紙に書かれた書状を受け取った諒輔は、今さらながらに重い責任を荷なわされたことに気づかされた。

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