別れ、そして始動
かぐや姫に起きた変化について、翁はこう語る。
「かぐや姫がね……月を見て、物思いに耽るようになったんです。特に満月の晩なんかは、一晩中眠らずにぼうっと月を見上げて過ごしている。八月の満月が近づくにつれて挙動はますますおかしくなっていき、とうとう満月でなくとも一晩中月を眺めているようになりました。完全な昼夜逆転です」
――それは変ですね。理由はわかったのですか?
「はい。かぐや姫はやがて、月を見ると激しく泣くようになりました。今まではそっとしておきましたが、こうなると心配でいてもたってもいられず……妻と二人で尋ねたのです。心配事があるなら話してごらん、と。すると、突然こんなことを言い出しました。『私は、実は月の都の人であって、この世界の人ではないのです。十五日、次の満月の日には月に帰らねばなりません。何年もこの世界で過ごしましたが、とても大切にしてもらって、私は今すごく幸せなのです。帰りたくありません』と。驚きましたが、信じました。普通の人間でないことはわかっていましたから」
――月の都の住人!? それはまた、なんとも面妖な話ですね。しかし竹の中から生まれ、数ヶ月で大人になり、自身を光と化す……そんなかぐや姫ならば確かにありえない話ではなさそうです。
「ええ、それで悲しんでいたんですね。我々もびっくりしまして、その場は頑張って慰めたんですが、やがて事態が飲み込めてくるにつれて悲しくなってきました。かぐや姫と過ごせるのは、あとひと月もないのです。あんなにかわいがって育てた我が子と二度と会えなくなるんです」
人の口に戸は立てられぬというが、その噂も屋敷の従者から使用人へ、使用人からその家族へ、その家族から京の商人へ……と広がり、とうとう宮中の帝の耳にも届いてしまった。最近どうも返事が来ないのでそろそろ竹林を燃やしにかかるべきかと考えていた帝は、それを聞いて飛び上がらんばかりに驚いた。
「何だと。かぐや姫は私のものだ。月などにやってたまるものか」
今日は八月の十五日。夜になり、満月が昇ればかぐや姫は月に帰ってしまう。もはや一刻の猶予もない。帝は千人の近衛兵を掻き集め、かぐや姫防衛隊を結成して屋敷へと送った。
自身も牛車で向かおうとしたが、牛車は当然ながらのろのろとしか進まない。痺れを切らした帝は途中で牛車を乗り捨て、馬車へと乗り換えて進んだ。乗り捨てられた牛車の牛は帝を怒らせたとして斬首の刑に処され、その肉は宮廷で塩焼きにして振る舞われた。
かぐや姫の屋敷には、厳戒態勢が敷かれていた。
屋敷の屋根や塀の上に五百人の兵士が登り、押し合いへし合いしながら月に向かって矢を射かけた。当然ながら月には届かず、そのまま重力に引かれて落ちてきた矢によって五人が死亡、数十人が負傷した。また、五百人の兵士がぐるりと屋敷を取り囲み、近づくものがあれば全員で一斉に取り囲んで槍で突いた。後ろのほうの兵士は何も見えぬまま闇雲に前方へと槍を突き出すので、結果として尻の穴が数個増えて戦場を離脱する兵士の数は五十を超えたという。
屋敷の内部では翁が久しぶりに竹細工師の手腕を発揮し、8桁のナンバー・ロック・キー付きの巨大な耐火防護籠を造った。その中に嫗がかぐや姫を抱きかかえて入り、翁が外から鍵をかけ、周辺に武装ドローンを配置した。
「無駄です」
かぐや姫は泣きながら呟いた。
「私を閉じ込めても、どれだけ武装しても、月の都の人には立ち向かうことさえできないのです」
翁は室内で刀を振り回しながら「そんなことはさせるものか」と息巻いた。
「この長い爪で眼を掴み潰してやる。髪の毛を掴んで空から引き摺り落とし、尻を丸出しにして役人たちに見せて恥をかかせてやる」
普段の温厚な翁からは信じられぬほどの暴言であった。
「お爺さま、お婆さま。これまでたくさん愛してくださってありがとうございました。私はここにいたい。けれど駄目なのです。私は帰らねばならない、あなた方を残して……。ああ! 胸が引き裂かれる思いです。恩返しもできず、ただ去らねばならないことが心苦しくて仕方ありません」
かぐや姫は嫗の腕の中で静かに涙を流した。
夕日が沈み、夜が来た。満月は徐々に南の空へと近づいていき、そして真夜中。月が一際明るく輝き始めた。松明に照らされた屋敷の中よりも、月に照らされた屋敷の外のほうが明るいのである。
時は来た。
眩い月の中に黒い点が生まれた。それは徐々に大きくなり、やがてそれを視認した兵士たちの間から口々に驚きの声が上がった。大空からたくさんの天人が雲に乗って降りてきたのである。雲の上の天人たちは、男女を問わず、かぐや姫に勝るとも劣らぬほどに美しかった。
地面から五尺ほど離れたところで雲は静止した。
兵士たちが雲に向かって一斉に矢を射かけようとしたとき、雲の上で一人の男が右手を
「さあ出てこい、幼き者よ。罪は赦された。月に還る刻だ」
嫗が抱きかかえていたかぐや姫の身体が、ぼうっと光り始めた。
「申し訳ありません。お別れでございます」
泣きながら嫗の手を握り、翁に向かって頭を下げ、半透明に輝くかぐや姫は籠も天井も突き抜けてまっすぐ空へと昇っていく。「お別れでございます」かぐや姫は雲の上にふんわりと着地した。するとどうだろう、かぐや姫の髪が世にも美しき白銀へと変わっていくではないか。そして天人の一人がかぐや姫に触れると、贅を尽くした十二単が灰のようにさらさらと崩れ落ち、霞のような衣がかぐや姫の身を包んだ。
「やれやれ、いくら重罪を犯したとて、赤子に戻してこのような流刑地に置き去りにするなど……」
白銀の男はそう呟くと、踵を返した。
雲が浮き上がり始めた。かぐや姫は何度も振り返り、涙を零しながら天へと昇っていった。
その後、ようやく屋敷に到着した帝が目にしたのは、足腰が萎えて立ち上がることもできない千人の兵士と、抱き合って泣き叫ぶ翁と嫗であった。すべてを察した帝もまた、その場に崩れ落ちた。
「それからはもう、魂が抜けたようになってしまって……毎日妻と嘆き悲しんで暮らしていました。お金はあります。暮らしていくのに何も不自由はありません。けれど、あの子がいないのです。こんなに悲しいことがあるでしょうか。……そうそう、風の噂で聞きましたが、帝も落胆のあまり病に臥せってしまったとか」
病床の帝は、熱にうなされつつ「かぐや姫、かぐや姫……」と呼び続けたという。その哀れな姿に心動かされ、従者たちは「そのままずっと臥せっていてくれ。何なら
数ヶ月後のことである。嘆き暮らす翁の元に、思わぬ五人の訪問者が現れた。
そう、かぐや姫に求婚し、伝説の品々を求めて旅立っていった五人が帰ってきたのだ。
それぞれ持ち帰ってきた品を翁に見せ、さあ約束を果たせと迫る五人に対し、翁は事のあらましを説明した。話が進むにつれて、五人の顔には驚愕そして絶望が浮かび始めた。無理もない。幾多の困難を乗り越え、目的を達成して帰還した五人を待ち受けていたのは、空っぽの屋敷と傷心のあまり床に伏せってしまった帝なのだ。なんと酷い仕打ちだろうか。
「そんなことが認められるものか」
「僕たちは言われた通りの品を持ってくれば結婚してくれるというから頑張ってきたんだ。こんなひどい話があるか」
「そうだ」
「何のために巨額の私財を投じたと思っている。そんなことは認められない」
「かくなる上は、月からかぐや姫を奪還するしかない」
「しかし、どうやって?」と
「ならば空を飛ぶ乗り物を造ればよいのだ。天人が雲で空を飛ぶのなら、我々は牛車で空を飛んでみせよう」
かぐや姫をめぐる恋敵であったはずの五人は、今や共通の目的に向かって手を組む仲間となったのだ。そもそもかぐや姫が「達成できないだろう」と思って出した無理難題をやり遂げた五人である。それが力を合わせれば、できないことなど存在しないはずであった。
こうして「月へ行く乗り物を開発する」という壮大なプロジェクトは始まりを告げたのである。
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