魅惑のアナウンス

槐あい

プロローグ『桜の香りに導かれて』

「白石アナ、打ち合わせお願いします」



アナウンス室の扉からひょっこりと顔を覗かせるテレビ局のスタッフさんに、ぺこりと軽くお辞儀をしながらお返事をして。


自分のデスクに準備しておいたお気に入りのクリアファイルに入った書類を大切に両手で抱え、小走りでスタッフさんの背中を追う。




白石ひな、テレビ局のアナウンス部に入社して数ヶ月で初めて決まった朝の情報番組でのお天気キャスター。

こんなわたしに務まるのかな、もわもわの色形もない不安の塊が頭の中をずっとぐるぐるしてて。




「あ、… すいません。打ち合わせで必要な書類置いてきちゃったみたい」


ここで待ってて下さい すぐ行ってくるんで、とスタッフさんは駆け足でどこかに行ってしまって、ひとりポツンと誰もいない廊下に取り残されてしまった。



東京のように広いこのテレビ局の中、新人のわたしがちょっとでも歩いたら迷子になってしまうから。きょろきょろと辺りを見渡しながらスタッフさんが戻ってくるのを待つわたし。



ふと右側に視線を向けると、換気をしているのか少しだけ隙間が作られたスライド式の大きな窓。

そんな隙間から流れてくる暖かな春のそよ風で、下ろしていた長い髪がふんわりとなびくんだ。



桜の香りだ、…いい匂い。



ほわっと緩んだ頬。なんでだろう、さっきまで何もなかった鼓動が狂うように身体中に鳴り響いて。


きっと、この桜の匂いに微かに混ざり込む、大人な甘い香水の香りのせいだ。

わたしの心をぎゅっと掴んで離してくれない、懐かしいこの香り。




香りにつられてゆっくりと視線を窓から廊下の先に向けて。

その瞬間瞳に映った、ポッケに手を入れながらマネージャーさんらしき人と並んでこちらに向かって歩いてくる男の人。



全身黒で統一された服装に深く帽子を被るその姿は、別世界に住む芸能人特有のオーラが隠しきれてなくて。


一歩二歩とこちらに近づいてくるのと同時に、わたしの鼓動の速度も痙攣したかのように今にも止まってしまいそうな程速まっていくんだ。



ぼっと立ち尽くすわたしの存在に気づいたのか、よそに向いていた視線がこちらに向けられて静かに混ざり合ったお互いの視線。


けど、視界に嫌なものが映り込んだみたいにスッと避けるようによそを向いてしまったその視線に、… きゅ。て痛いくらいに胸が締め付けられるんだ。


そして、映画の中のスローモーションのようにわたしの横を通り過ぎていって。それと同時にゆっくりと頬に伝う、一粒の涙。




わたしの事、忘れちゃったのかな。もう5年も前だから、大切な想い出も全部消えちゃったのかな。


5年前、突然何も言わないでわたしの前から居なくなって。狂ったように何度も名前を呼んでも、返事をしてくれなくて。


あなたの前に、わたしがここに立っているのに。どうして、わたしを視界にも入れてくれないの?




でも、どんなに胸が締め付けられても辛くても大丈夫。今のようにほんの少しだけでも、あなたに会えるのなら。



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魅惑のアナウンス 槐あい @ai1116

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