第1部〔賢者の石〕
異常と異能
赤は炎の色で、血潮の色だ。
これは最初から、このために用意されたものだったのだろう。
あの人たちのために用意されたものだったのだのだろう。
そう思えば――悪くはない。
◆◇◆◇◆
研究職、あるいはそれを志す者のほとんどが、必ず耳にする名前がある。
パトラシア・J・アルゼフ。通称、博士パトラ。分野を問わず功績を残し、常識を覆して様々な「前提」を新たに作り出した男だ。今から何かを研究しようとすれば、必ずと言っていいほどその男の論文や書籍に行き当たる。
多くの学者がその男を鬼才と称した。
奇才でも、異才でもなく、鬼の才と称した。
理由はいくつもある。たとえば、彼が手を出した分野があまりにも広いということ。歴史、地理、文化。延長線上といわんばかりに考古学。さらにそこから飛んで心理学。飽き足らず哲学に手を出すまでは良かったが、その次が何故か電子工学だ。続けて医学や薬学、農産物に動植物と見境なく手を出し、恐ろしいことにそのすべてで専門家を唸らせ、納得させるだけの論を仕上げている。
次にあげられるのが若さ。最後の論文を出した時点で、彼はまだ25にも満たなかった。初めて歴史に関する論文を出したのは、ようやく二桁の年齢になった頃だという。論文の書き方を理解していなかったためか、当時のものは文章や書式が拙い。それでも内容は一級品だった。
そして鬼才と言われる一番の理由で、彼の異常さが最もわかる事実として、パトラシア・J・アルゼフが学校に通っていなかったことが挙げられる。
博士パトラと呼ばれてはいるが、正式に博士号を取得したわけではない。彼は独学で、趣味として自らの考えをまとめているだけだ。
とある大学教授が偶然「メモ」を見つけなければ、パトラシア・J・アルゼフという学者はこの世に出ないまま終わっていただろう。彼は研究に一途であるが、名声には興味がない。自分の研究以外に無頓着で、金がないと研究できないこともわかっていないようだった。
知らないことを知りたいと思った。
だから研究をするのだとパトラシアは語る。知ることが目的なので、それが終われば次に移る。知った先で物事を応用しようとは思わない。
彼はそれを「鋭利な知識欲」だと言った。他人とは違うという自覚はあるらしい。「普通、というやつに比べると、私の欲は尖り過ぎている」ともらしたことがある。
そんなパトラシアが最後に論文を出したのは、もう5年も前のことになる。
◆◇◆◇◆
パトラシアが新たに書き上げた論文は、サヴァン症候群に関する内容だった。正式に診断されていたわけではない、それでも、パトラシアは自身をサヴァンであると思っているようだった。
論文は変わらずぶっ飛んでいて、常識を覆すようなものだった。世に出されれば間違いなく話題になり、何らかの賞をもらうことになっただろう。
だがそうはならなかった。論文は学会に提出されて、そこで止まることになる。止められたという方が正しいかもしれない。公表は許されなかった。
原因は論文内にたびたび登場した単語だった。眉唾だ、とうとう狂ったかと冗談交じりに笑っていた研究者たちは、読了後に「もしもここに書いてあることが本当ならば」と疑うようになっていた。
それが真実であると証明されたのは、論文提出から1週間後だ。
欧州のある国を拠点とする研究機関から、学会に論文を破棄するよう要求があった。どういうやり取りがあったのかは伏せられている。ただ、相当な額の金が動いたことは確かだった。
結果として、論文はなかったことにされた。情報をリークしようとした関係者は、いつの間にか行方が知れなくなっていた。
論文を執筆した当人、パトラシアにも口止めがなされることになった。件の機関――あえて名前は出すまい。知らない方が良いことも世の中にはある――はパトラシア個人にも接触し、論文の棄却を求めた。君の論文はすばらしい。だからこそ、世の中には出せないと。
「そうか」
パトラシアはただそう答えた。すでに研究は終えている。その後はどうでもいい。そう言わんばかりの態度だ。
「無論、タダでとは言わない」
「はあ」
これにもやはり、興味なさげに応えた。
(はぐらかして、あとからどうにかする気か)
口止めのために来た男はそう考えた。彼とてパトラシアがどういう人物かを知らなかったわけではない。それでも疑わないということはできなかった。彼が所属し、論文を止めたがっている組織はそういう場所だ。
「望むだけの額を与えよう。最新の器具を渡しても構わない。人が必要ならば用意する」
「とくには……いや」
何かを思いついたようにパトラシアが顔をあげる。宙に何事かを唱えて、それから彼を見た。
「車は確か、向かないと聞いた。地面が舗装されていないし、燃料の補給もできないからと。この時代にという気もするが、馬……というよりは馬車だな。用意をしてくれないか。御者もつけてくれるとありがたい。それから、ひと月分の生活費を」
「馬車? なぜ」
訝しげに目を細める彼に、パトラシアは珍しく笑ってみせた。
「何も知らないのか。私の論文を棄却せよと求めるのに」
「なにせ上の命令でな」
「そうか――なら、上に伝えてくれ。私は論文を捨てる。書いたことは全て覚えているから、問題ない。そして特定の人間以外にはこれ以降接触しないと約束する。その証明も兼ねて、口止め料代わりにコンコルディアへの片道切符と、ひと月分の生活費を求める。金はユーロではなくドルで。あそこの通貨はドルだと聞くから、そちらの方が便利だ」
「コンコルディア?」
聞き覚えのない単語だった。一応、要求されたことをメモに残して、男はパトラシアに尋ねた。
「その、コンコルディアとやらに行く理由は?」
何事にも興味を示さないような男が望む場所。そこには何があるのか。そんな興味からの言葉だった。上の命は口止めとその対価を確認するだけだったので、これは男の独断となる。
そうだなと言って、パトラシアは紙の束を手に取った。「あ」と男が声をあげる。それは彼が口止めしに来た、問題の論文だった。
「これでは研究しきれなかったことを、突き詰めるためだな」
世には出なかったパトラシア・J・アルゼフの論文。「サヴァン症候群は異能足り得るか」という論題のそれには、次のような文章がある。
――何を以って異能と異常を区分するかは、難しいところである。異能を研究するには、現代の科学、医学、生物学、他諸々も技術が足りなさすぎる。それでもあえて区分を設けるならば、ひとつには現代の理で説明できるか否か。そしてもうひとつには、0と1の差であろう。異常は1を100にすることがあっても、0を1にはできない。それをたやすく行うことこそが異能である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます