海月のバタ足

如月ゆう

第1話 海月の傘が破れたとき

その日は突然やってきた。

「お願いがあるんだけど、退職してくれないか?」

擦れたいつもの声が、この時やけに耳障りに思えた。



世の中では新型ウィルスの影響を受け、都会がゴーストタウンと化した。

テレワークだ、通勤時間は混雑時間を避けろだ、今まで見た事のない事が起こっている。連日ニュースでは話題として取り上げられていて、世界全体が物々しい状況になっていた。

事の始まりは4月。今思えば、そこから助走は始まっていたのだと思う。

16日に出社予定だったけれど、急に14日になって上司からSkypeで「社長に電話して欲しい」とだけメッセージが入った。

そのまま社長に電話をすると、言いづらそうに社長が言う。

「実はさぁ。今日は君にお願いがあってね?明日から1か月間、休業して欲しいんだよ。その代わり、休業補償として6割の給与は出すから。君の給与だと…12万くらいか?」そう言いながら、概算での金額を算出している。

沈黙の中、電卓を叩く音だけが聞こえてきた。

「あの・・12万だと月のランニング払って、手元に残るものは何も無いのですが・・断る選択肢はあるんですか?」

答えは見えていたけど、聞いてみる。

「え?いやーぁ、会社としてはお願いするしか無いんだよ。ほら、新型ウィルスの件で色々と会社も大変な事は君も分かるだろ?」

予想通りだった。会社の提示する内容を飲む以外の選択肢は用意されていなかった。

結局、ほぼ強制的に1か月の休業を余儀なくされた。


会社の役員や上席は、なぜか他に休業者が居るとは言うが、「誰が」という部分は頑なに言わず。

休業に入った人員の選定基準は何も教えて貰えなかったが、私は薄々気づいていた。仕事の出来ない人間が対象になっているのは、見て明らかだ。

要するに、ウィルスによる影響を理由に不要な人間を選定し、追い出す予備期間として1か月を休業にしたのだろう。1か月の間は様子見をして、引継ぎ期間を設け、休業になった人たちが居なくても業務が回るのを確認の上で退職勧奨をする。

そういうシナリオが見えていた。

本当にクビにする気が無いのであれば、会社は努力をするものだ。

しかし、努力をしている形跡は何も見えてこなかった。

私が休業に入って数日後、会社はウィルス対策として社内を消毒・抗菌処理をしている。つまり、困窮していると言いながら休業は3名のみの上、経費削減とは逆行するような動きをしていたのだ。

Skypeで飛び交う内容からも徐々に疎外される状況になった事や、上司が何も声を掛けてこなくなった事。変に絡まれたくないからなのか、罪悪感なのかは分からない。ただ、自分の仕事が思った以上に評価されておらず、プライベートを削ってまで仕事に取り組んできた事が無駄だったと痛感した。

それが何より屈辱的だった。


海月の傘が破れたらどうなるか。

殆どの海月は死んでしまうのだ。

故意に海月の傘を破る人がいるならば、それは殺したいと言っているのも同然。

人間だろうが海月だろうが鼠だろうが、命の重みに変わりはない。

私には2匹の猫がいる。私は2匹の命を背負っている。

そんな簡単にくじける訳にはいかない。私が死んでしまったら、2匹の猫も道連れになってしまう。それだけはどうしても阻止しなければいけない。私の状況は、2匹に関係のない話しだから。


休業期間に入り、ネット上から拾える在宅業務を漁りながら、多少の就職活動はしていた。しかし、会社が今後どうしたいのか伝えて来ないし、明確な休業補償の金額も定時されず、社長が出したザックリとした給与金額しか聞いていないままになっていた。

そのため、本格的に就職活動をするべきなのか、判断もできず1件応募して駄目ならまた1件応募する、そんな繰り返しを続けていた。

合間で請けていた在宅業務の評価が、思った以上に高かった事がせめてもの救いだった。会社からは無能者のように扱われていたので、自分は無能ではないのだと言い聞かせられるだけの材料にできる。1か月という時間で何より懸念していたのは、心が腐ってしまう事。もちろん、金銭的な事は無いと言ったら嘘になる。けれど、前向きでいられるメンタルが欠けてしまうと、金策や就職活動などに取り組む気力が生まれない。それが一番怖かった。


自宅で足掻きながら、暗中模索を繰り返すような日々が続いた。

新型ウィルスの件が影響して、生活すらままならない人が爆発的に増えた。

政府は全国民に10万円の給付金を出すとニュースで流れる。ただ、その話が出てから実際に手元に届くまで、約3カ月の時間が経過している。けれど、まだ1円たりとも受け取れてはいないのが現状だ。

自分の住んでいる地方自治体は、当初の受給開始日を6月20日が最短だと公表。

市民からバッシングを受けたためか?

後々訂正し、5月20日から受給開始とホームページに掲載した。

「良かった・・これで何とか来月は生活できる・・・。」

いい大人が、来月の生活をどうしようとニュースを見ながら一喜一憂し、絶望に駆られ、苛立ちながら国会中継を見る。明日の生活が見えない状況で、いつまでにという明言もなく、無期限で待たされる。その怒りが煮えたぎる感覚は、もう二度とごめんだ、そう思う。


役所の対応は、最低1か月から3カ月ほど掛かる。とにかく遅いのが当たり前だ。

そのため、見越して何か打てる対策があるのか、役所に問い合わせをしていた。

役所からは、住宅確保給付金というものがあると提案される。要するに、生活に困窮している人に対して、住宅の一部を補助するという内容の制度。

その申請をするには、賃貸の契約書や不動産会社に必要書類を書いてもらう必要がある。通帳の残高で預金が無い事を確認するので、通帳の内容が分かるものを準備。申請書を書き、捺印。休業で給与が減った事が分かる書面があれば持ってきて欲しいとの事。

生活に困る状況なのに、役所に何度も行かなければならない事に憤りを感じた。

書面を用意するのにも、郵送費等の雑費が発生する。本当に困窮している人は、はした金でも温存したいはずなのに。

とりあえず、不動産会社に書面を郵送し、返信封筒で送り返して貰うように依頼をした。

その対応に追われている頃。4月30日に会社役員からメールが届いた。

”5月11日に、社長が1人1人と個人面談を実施します。そのため、11時には全員出社するようにして下さい。”そんな内容だった。

何だか胸騒ぎがした。「何を言われるのだろう。恐らく、休業延長か退職勧奨もしくは解雇だろうな・・。どちらにしろ、いい話しでは無いだろうから覚悟しなきゃ。」そう思った。

そのメールが届いた翌日、会社にも休業補償として出す金額が分かる書面を出して欲しいと、自分でフォーマットを作成し、社長にメールで投げた。

その際、「給与や雇用に関係する事については、今後どう動くかに影響します。手遅れになるのを防ぐため、通常より給与が削れるような事があれば、出来るだけ早く教えて下さい。」と書いた。

5月11日の全員出社についても、往復3時間の通勤時間が掛かるため、感染予防もあるし、こんな困窮している状況で交通費を掛けたくないので電話で対応できないか、と交渉する内容も盛り込んだ。

それに対しての返答は、私がメールを送ってから1時間後に来た。

短文で「11日の件は専務と相談して7日に決めます。必要な書面も7日に出すように対応します。」とだけ。

雇用に関する事については、全く触れない内容だった。

恐らく、都合が悪い内容だから伏せたのだろう。休業要請の時も急に言い出して、考える時間を与えずゴリ押すやり方だった。恐らく今回も同じ事が起こるだろうと身構えた。


→2話へ続く



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