最終話 プロポーズ
「よし、綺麗になったろ」
「うん。ありがとりっくん」
三月のある日のこと。茜は大学も無事に卒業し、春からは東京の出版社で働くこととなった。今日は茜の新居の引っ越しの片付けに来ていた。
「てか仙台の時より部屋狭いよな。流石東京」
「ね。家賃は高くなったのに部屋は狭くなった」
「でも茜の貰える初任給ならもっといいとこ住めたんじゃねえの?」
「まあそうだけど。別に良いよ、一年だけだし、掃除も楽だし」
「タフだな」
「まあね。りっくんは今日泊まってくんだよね?」
「おう」
もとよりそのつもりだ。今は午後九時だから帰れないし。てか目的のモノを渡すまで帰れない。いつ渡すべきか……。まあ、今だよなあ。
「なんかソワソワしてない?」
「い、いや、そんなことは無いぞ」
鞄に忍ばせたモノを渡すタイミングを伺っていると、茜が不思議そうな顔でそんなことを聞いてくる。相変わらず察しが良いというか目ざといというか。えーい、ままよ!
俺は鞄に入れていたケースを取りだし茜に差し出す。
「これ何?」
「……とりあえず開けてみ」
茜はケースを開けると、きょとんとした顔から一転、ぱあっと表情を明るくさせる。喜んでくれたのだろうか。
「うわあ、腕時計だ……。スタイリッシュでかっこいいね。これを私に?」
「そう。就職祝いと……」
「就職祝いと?」
「その、なんだ……、婚約指輪の代わりというか……、ダイヤモンドの指輪は高すぎて俺には買えなかったけど……。そのデザインなら会社でも付けやすいかなと……」
「へえ……」
「あ、えと……、ダメだったか……?」
「ううん、嬉しい。すごく……、嬉しい」
淡く朱色に染まった頬と緩んだ口元。あどけなさとしとけやかさが混じった甘い笑みは、三年前のあの日を思い出させる。俺と茜が交際を始めた、あの日。あの時よりも大人っぽくなった笑みは以前よりも魅惑的に映る。
そんな顔を見せられたら、俺はさらに魅せられてしまう。好きが、恋が、愛が、止まらない。心も、体も、全身の細胞の一つ一つまでもが茜を求めている。
ならば俺は。俺と茜は――
「茜、俺と結婚して下さい」
「良いけど……、まだ足りないかな」
「まだ……?」
「りっくんの愛が、まだ足りない」
茜は先程よりも更に大人っぽい笑みを浮かべる。あどけなさとしとけなさを全て色香に変えてしまったような蠱惑的な笑み。これはダメだ。
稲妻が一瞬で駆け巡り、脳神経をスパークさせ、目の前では火花が散る。脳神経系が指令を出すよりも早く体は動いていた。
茜の体を引き寄せて、その柔らかで妖しい魅力を放つ唇へと、自分の唇を重ねる。触れ合ったところから電気信号が走り、強烈で生々しい甘さが脳髄を溶かす。あの日、あの時、観覧車で茜が俺に打ち込んだ毒はまだ消えない。
あの時から茜の猛毒は俺の心を、体を蝕み続けている。その毒は治るどころか、さらに鋭く牙を剥く。これ以上、どうすれば良いんだ……。毒を和らげるために茜を求めれば、さらに毒は深く俺を蝕む。もう二度と浮かび上がれないほど、茜に溺れている。
「……ねえ、りっくん」
「……何だよ」
「私、婚約指輪なんていらない」
「へ?」
「何にもいらないから、りっくんが欲しい。全部……、欲しい」
茜はそう言うと、先程よりも強く深いキスを交わしてくる。脳髄が溶けるなんてものじゃない。体の全てがドロドロに溶かされているかと錯覚するほどの凶暴な甘さ。
舌が絡み合う度に、新たな猛毒が俺の全てを侵していく。麻薬やシンナーなんてやったことはないが、こんな感じなのだろうか。求めても求めても、満たされることは無く、さらに欲しくなっていく。他に何も考えられないほど、脳みそはふやけきっていた。
茜は俺から口を離すと、舌でペロリと唇をなめる。やっとのことで、俺の思考能力も戻ってくる。
「なあ、茜……。さっきのって返事ってことで良いのか?」
「それ以外無いでしょ」
「大胆な告白をされたもんだな……。男よりも男らしい……」
「だって……、他の言い方が分からなかったんだもん……」
茜は恥ずかしくなったのか、耳まで真っ赤にさせたまま、口を不満そうに尖らせる。は? 何この子……。可愛すぎてビックリしたわ。勢い余って言って、後になって照れ出すとことか超可愛い。やだ何可愛い。可愛さを具現化すると、茜になるんだなって。
「で、りっくんは? 何か言うこと無いの?」
「いや、言ったでしょ。プロボーズしたじゃん俺」
「私があれだけ言ったんだから、言わないとダメ」
「分かりましたよ……」
言葉を紡ぎ出そうとしても、口から出るのは盛大なため息だった。いや、まて。恥ずかしすぎる。プロポーズをするよりも恥ずかしいんだが。けれども茜はそんな俺を許さない。今すぐ言えとばかりにジト目で睨んでくる。
言うしか無いよな……。俺は深く息を吸ってその言葉を口に出す。
「その、茜……。茜の人生を俺にくれ」
「人生だけで良いの?」
「だけっていうか……、茜の心も体も……、とにかく全部欲しい」
「重っ……」
「お前が言ったんだろ……」
予想外の切り返しに思わず苦笑をしてしまう。そして可笑しくなって、二人揃って笑ってしまう。さっきの空気はまでは何処へやら、弛緩した空気が流れ出す。やっぱり、茜は飽きない。
ひとしきり笑い合った後、茜は少し表情を固くさせる。
「ねえ、律さん」
「うお、ビビった。そういえば、付き合った最初の方はそんな呼び方だったな」
「うん、そうだったね。でさ言いたいことあるんだけど」
「まだ俺を殺そうとするの? 何?」
茜は俺の耳元に口を寄せてくる。茜の吐息が当たってきてむず痒い。
「あなた無しでは生きられない体になりました……。責任とって下さい」
「奇遇だな。俺もお前が居ないと生きられなくなったわ。茜も責任取ってくれ」
「ふふっ、やっと言えた」
「へ?」
茜は舌を少し出して、悪戯っぽく笑いかけてくる。その姿は小悪魔そのもの。頭が切れて、計算高く、自分のペースで事を運ぼうとする。思えば、茜にピッタリだ。
「何でも無いよ、秘密」
「何だよ今の。めっちゃ気になるんだが」
「一つ言うなら、私はりっくんが私を好きになる前から、りっくんのことが大好きだったってことだよ。りっくんが私の好意に気が付いたのめっちゃ遅かったけどね」
「それは悪かったよ。なんか無性に懐かしいな」
あの頃から俺と茜の関係性は随分と変わった。只の隣人から、同じ大学の先輩と後輩、一緒にご飯を食べるほど仲良くなり、そして恋人関係へと。今や婚約関係だ。
「それはそうと、りっくん。今夜は寝かさないからね」
「それは俺の台詞だ。てか喉渇いた」
「私も。すぐ近くにコンビニあるから買いに行こ」
茜の新しい部屋から出ると、月が眩しいほどに輝いていた。三月にしては今日は少し寒く、握った茜の手が温かい。先程までのやりとりで火照った顔を外気が冷やしてくれて心地が良い。
思えば、茜との関係はGから始まった。あの忌み嫌われている虫に少しでも感謝をすることになるとはな。まあ、出てきたら容赦なく処するんだが。
そして何故かご飯を一緒に食べるようになったんだっけ。きっかけはもう思い出せないけど、多分茜が何かやったんだろう。
この生活力皆無の後輩女子は、気が付けばギリギリ一人暮らしが出来る俺の嫁へとなっていたわけだ。甘やかしているつもりが、甘やかされていたこともあったわけだが。
勿論この先に不安が無いわけじゃないけれど、多分なんとかなるだろう。いや、何とかすると言った方が正しいのかもしれない。俺も茜もお互いに何とかしようとする。関わり続ける。これまでのように。
俺と茜はお互いに寄り添って生きていくのだろう。俺たちの関係にまだ先があるのだとしたら、それは子供が生まれたときだろうか。何年先かもよく分からないけれど、きっと気が付いたらそうなっている。だって、楽しいときほど時が経つのは早いから。
握った手に少し力を込めると、それに応えるようにしっかりと握り返してきた。俺はそれに負けじと更に強く握り返す。すると、茜も更に強く握り返してくる。そうしていつの間にか握力勝負のようになる。
「ふふっ、バカみたい」
「確かにな。なあ……、茜」
「何? りっくん」
「言いたいことがあるんだが。実は今日一度も言ってない言葉があってだな」
「私もあるよ、せーのっで言おうか」
三年も毎日一緒に居ればお互いのことなんて分かってる。けれど確かめずにはいられない。愛情とはそう言うものだと思うから。
「「せーのっ」」
「「愛しているよ」」
――――――終わり
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あとがき
これにて「生活力皆無の後輩女子を甘やかすことになった」完結です。
ここまで読んで下さった方は勿論のこと、ハート、コメント、星、レビューなど下さった方は本当にありがとうございます! 励みになりました。
気が付けば、この物語を書き始めてから一ヶ月が経っていました。執筆を始めたのが先月の始めからだったことに加えて、完全に勢いだけで書いていましたので、拙い文章、構成などに色々思うところはあったと思います。それでも、ここまで付き合って下さった方は本当にありがとうございます! 大感謝です!
あと少し書き足したりはすると思いますが、これにてこの話はお終いです。
新作は設定だけ考えておりますので、そのうち投稿すると思います。投稿した際には、良ければそちらも読んで頂けると嬉しいです。
ではでは、これからもよろしくお願いいたしますm(_ _)m
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