第19話 お願い事

 あの黒歴史から二週間が経った……。茜と俺はどうなったかというと、特にどうともなっていない。というか、あの事件はお互いに触れてはいけない禁忌タブーにするということがお互いの合意で決まった。


 俺は後輩女子の前で大泣き、挙げ句の果てには抱きしめらるという行為を記憶から消したい。茜は勢いのあまり俺を抱きしめてしまったという行為を記憶から消したい。そんな二人の考えがあの事件を禁忌たらしめたのだった。


「あっ!」


「どうした、茜?」


「忘れてました」


「何を?」


「この前のゲーム大会の罰ゲームです」


「そんなんあったけ?」


「ありましたよ。律さんが私の言うこと一つ聞いてくれるっていう」


「あったけ?」


 夕飯を食べ終わった後、俺は物理の実験レポートを仕上げており、茜はレースゲームをしていた。そのゲームをしたせいだろうか……。茜が例の罰ゲームを思い出してしまったのは……。正直そのまま忘れて欲しかったもんだ。


「ありましたよ。律さんとぼけてません?」


「いやー、年をとったせいか物忘れが激しくてなあ」


「私と一歳しか変わりませんよね?普段は年寄り扱いされたら怒る癖に……」


「はてさて何のことやら」


「律さんが食費を折半にしてくれって言ったやつですよ」


 うーむ、そこまで言われると忘れたふりはできないな。弱ったなあ。茜が何を言い出すのかあまり予想できなくて恐いんだが……。まあ、あの黒歴史以降は照れているのか知らんけど、俺を揶揄からかうことは大分少なくなったけどな。


「うーん、そんなこと言ったけ?」


「二週間前何があったのか忘れたんですか?」


「お前それ掘り返すなよ。タブーだろ。てか、お前も恥ずかしいやつだろ」


「肉を切らせて骨を断ちます……」


「止めとけって。お互いに恥ずか死ぬだけだぞ」


 あろうことか、あの禁忌を持ち出してくるとは……。茜、おそろしい子!というか、本当に止めた方がいい。この二週間の間、この黒歴史が何度か言及されているが、もれなくお互いに致命傷を負っている。


「律さんの泣き顔可愛かったなー」


「おい。……そういうことならこっちも考えがあるぞ……」


「どうぞ、お好きに」


「お前に抱きしめられるの気持ち良かったなー。もう一回やって欲しいなー」


 自分で言っていてなんだが、これは……すごく……気持ち悪い。もはや只のセクハラ親父。俺、後輩女子にセクハラするような大人には絶対なりたくなかったんだがなあ……。何処で道を踏み外してしまったんだか。


「……本当にやって良いんですか……?」


「おう、ばっちこい」


「……いいんですね……?」


「カモン」


 終いには抱きつけと茜に強要する始末。マズい。本当にマズい。これはいくら何でもいけないだろう。今、茜は冷静な判断が出来ていない。その証拠に俺にジリジリと近付いている。ちなみに俺は今、両手を前に出し受け入れ態勢。本当に地獄に落ちた方が良いな俺。


「行きますよ……」


「お、おう……」


「やりますからね……?」


「い、い、いいぞ……」


 ジワジワと俺と茜の距離は近付き……。二メートルが一メートルへ。一メートルが五十センチへ。更には三十センチへ。これ以上はいけない。ここは俺がストップを出すべきだろう。


 茜の顔は風邪を引いたみたいに真っ赤だった。視線は定まらず、瞳は今にもこぼれそうなほど揺れている。口元は力が入っているのか、すぼめて小さくなっている。


 あかん。可愛すぎる。コイツこんなに可愛かったけ? そうこう考えている間にも茜との距離は更に近付いている。茜の両手はもう俺の背中の近くに回されつつある。俺が手を回して引き寄せれば、茜を抱きしめられるのだろうか……。


「ングッ!? ゴホッゴホ、ゴホッ」


「うお、おい。茜大丈夫か?」


「ゴホッゴホ。ンン゛ー。コホッコホン。あービックリした」


「おいおい大丈夫かよ?」


「大丈夫です。唾が気管に入りました。飲み込むの忘れてた……。っっ!?」


 咳混じりに茜が対応する。それぐらいなら良かった。俺らの状況は全く良くないが……。さっきまで茜が俺の背中に手を回しかけていたのだ。そこでせたりしたらどうなるかなんて、容易に想像がつくだろう。


 そう、今俺の胸に茜の頭がある。俺と茜の顔の距離は十五センチほど。近すぎる。俺はとっさに両手を上にあげているので、抱きしめるなどという事故は起きていない。ただ……、もしこの状況を第三者が見たら、間違いなく誤解するだろう。


「茜さん、俺が悪かったです。離れて頂けないでしょうか?」


 状況を理解した茜は一瞬で後方に飛び跳ねる。飛んだ距離約一メートルへほど。後ろ飛びでそんなに飛べるんだな。すごいけど下の人から苦情が来そう。


「あうう、あの律さん……」


「何でしょうか?」


「今のは……忘れて下さい」


「かしこまりました」


 もちろん忘れられるわけが無いんだが。さっきの茜の匂いとか、真っ赤な顔とかはもう脳裏に焼き付いてしまっている。ちなみに俺が敬語になってるのは気にしない。俺の脳がショートを起こしてるだけだから。


「そ、それでさっき何の話をしてましたっけ?」


「罰ゲームの話でございます」


「あ、そ、そうです。……何で敬語なんですか?」


「分かりかねます」


 さっきのお前の破壊力が強すぎて、言語にまで影響を及ぼしているから。なんて言えるわけがない。というか、もうとっくに直っているんだが恥ずかしくて直せない。


「違和感すごいので普通にして下さい」


「かしこまりました」


「もう一回やっても良いんですよ」


「分かった」


 茜は肉を切らせるどころか、骨までも相手にくれてやるといったご様子。ノーガード戦法って恐い。もちろん次同じ事をやられたら、お互い致命傷じゃ済まなくなるので、俺はいつもの言葉遣いに戻しておく。


「で、律さんは私のお願いを聞いてくれるんですよね?」


「良いよ。何なりと」


「じゃあ、次の週末私とお出かけしましょう」


「それは所謂いわゆるデートとかいうやつで?」


「うっ、そ、そうです」


「分かった」


「やった。ありがとうございます」


「けど良いのか?」


「へ? 何がですか?」


 やっぱり気付いていないようだな。それも仕方がない。人にも依るけど、大学に入ると毎日が楽しくって仕方がないもんな。勉強なんてするわけがない。いや、勿論ちゃんとやってる偉い人も居るんだろうけど。


 一年前までは俺もそうだった。そして絶望したもんだ。自分の愚かさに。ちなみに今は七月の第二週。お分かり頂けただろうか? そう……、期末試験。


「再来週から期末だぞ」


「あえ? マジですか?」


「そうマジです」


「そういえば講義終わりに言ってたような……」


「ああ、言ってただろうな」


「律さん」


「何だ?」


 茜は紅潮していた顔から一転、青ざめた顔へと。人の顔色ってこうも一瞬で変わるんだなあと感心させられる。


「第二外国語は何でしたか?」


「中国語」


「神ですね」


「は?」


「あと、統計学って分かりますか?」


「理解はしてるけど」


「神です」


 何言ってんだコイツ。髪? 紙? 神? おそらく神って言ってるんだろう。どうして履修していた第二外国語が中国語で、統計学が分かると神になるのだろうか。そんな奴ゴロゴロいるだろうが。


「何が言いたいんだ?」


「あと、律さん」


「何だよ?」


「さっき言っていたお願い、変えて良いですか?」


「え、別に良いけど」


 おうん? デートに誘われたかと思ったら速攻で拒否されたんだが。俺なんか悪いことしたかな。いや、さっきの事件とかはどう考えても俺が悪いんだけどさ。


「中国語と統計学教えて下さい」


「なんだ、そんなことかよ。良いよ」


 一瞬嫌われたかと思って本当に動揺した。ん?何で俺はそこまで動揺したんだか。今はそんなことはどうでも良いか。


 大学生の避けては通れぬ関門、期末試験という人脈勝負が始まる。もちろん本当に真面目に勉強している人もいるからね。

 



 

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