第15話『最大異端の百装無神(3)』


 どろどろの血のような半覚醒。微睡みの淵より、トレイズ・モールトンは目を覚ます。

 妙に足下が透けている感覚。見下ろせば、片側では新出雲市の街並みが。もう片側では、氷とは違う素材で作られた銀盤が一望できた。


 この街で最も大きく、そして最も背の高い場所、即ち、ハイ・カーボン製のコロッセオ。六年前の《大戦》をきっかけに誕生した、戦争の縮図――《代理戦争》のための戦場である。


 会場全体を蓋う外縁、その断面に腰掛けていたトレイズは、ふむ、と一つ、口元に手を当て考える。熟慮している、というにはいささか狂気に満ちた瞳ではあったが、『騎士狩り』は正確に、この新出雲という街の異様性を読み取っていた。

 発展の前と後で、その在り方の差が歴然にすぎる――真っ当な思想の下に行われた開発では、あるまい。


「六年あれば、街の景観は斯様にも変わるか」


 かつてこの地には、都市開発に乗り遅れたしなびた町が一つ、あるのみだった。

 都市化に抵抗するほど人の心のある町ではなく、さりとて繁栄できるほど技術についていけるような場所でもない、そんな場所。それがあの異端戦争の影響一つで、見渡す限りに最新技術の贅を尽くした大都市だ。


 全ては《異端者》が、表舞台と手を組んだがために。

 六年前の《大戦》がなければ、今この場所にはあいも変わらずさびれた町があるだけのはずだったのに。その未来は、一瞬のうちに異端となった。


 感慨深い、というわけではない。そもそもトレイズはかつての新出雲をよく知らない。景観を覚えていたのは、単純に一度伝道のために立ち寄ったことがあったからだ。最早薄れたその過去に、特別な思い入れなどあるわけもない。


 いや、ある意味では想い出、と言って良いのかも知れない。トレイズがこの街に感じたものとは、言うなれば『共感』だ。この街も、トレイズ自身も、たった一つの出会いだけで、強烈に己が在り方を変えるに至った者であるがゆえに。


 ふと、頬にかかる風が冷たいことに、少しだけ驚く。何せこの体、異端世界より持ち込まれた妖刀――《蛟血》によって仮初の命を吹き込まれてからこちら、およそ人らしい感覚を得たことがなかったのだ。

 食事をしたところで、味を感じることもない。そもそも空腹を感じない。

 戦場にて傷を負ったところで、痛覚など感じない。命の危機も覚えない。もとより骸の類であるがため。


 それでもなお、この場所に流れる風を、「冷たい」と感じるのであれば。

 きっと、トレイズの記憶が勝手に再生しているだけだろう。人の脳には、感じられない部分を自動で補完しようとする機能が備わっている、と聞いたことがある。


 無論それなら、何故今まで味や痛みをフィードバックしてはくれなかったのか、と疑問に感じなくもないが……まぁ、さして気にするほどのことでもない。第一、予想はついている。


「紅の斬馬刀……我を殺せし者……神の使徒……!」


 ぼつぼつと、狂気と狂喜に満ち溢れた声でそう呟く。

 禍々しい、深紅の三日月を思わす笑みを、自分の口が形作るのが分かった。トレイズ・モールトンという人間の分水嶺。己の運命を丸ごと変えた、最大最高の異分子いれぎゅらぁ


 彼の価値観をバラバラに破壊し、再構成した黒き金木犀の神。彼女を伴い、六年前のあの日、新たなる『救済』の形を己に提示した異端騎士。彼らとの再会が、もはや屍人となったトレイズに、生前の感情を取り戻させているのだ。


 ああ、そうだとも。

 この街も、トレイズも、あの男によって生まれ変わった。


 あの紅の斬馬刀を仮面の剣神が振るうに至ったことこそが、きっと運命の分岐点。で、あるならば、似た者同士であるこの街こそは、トレイズの新たなる救済の出発として相応しい。


 トレイズ・モールトンは、《蛟血》を携え立ち上がる。

 風が強くなってきた。ああ、実に素晴らしい。この風に乗って、『救済』は彼方まで届くことだろう。どうやら、時は満ちたと見える。


「さぁ、『救済』を始めよう――」


 伝道の時だ。

 かつての教えでは救えなかった、正統世界の迷える子羊たち。《異端者》であるか否かを問わず、彼らの多くは弱者であり、その弱さのゆえに苦難や苛酷に行き当たる。


 ならばトレイズの『救済』によって、彼らを導こう。異端世界の神の様に、極限まで強くさせることで、彼らを苦行の内から解き放とう。


 妖刀を、天へと突き刺す。その刀身が中ほどまで異端世界の門へと呑み込まれた。

 リリリリ、と不気味な音を立てて、深紅の刃が、脈打つように発光する。その様子、さながら蛇の獲物に毒を送るがごとく。血色の光を毒とするならば、刀身は毒蛇の牙だ。


 この場に諸人でもいたのなら、鼓動の色に不安を覚えただろう。その光は、何か苦痛の前触れなのではないか、と、痛く恐怖し、震えたはずだ。

 だが、案ずることはない。神経毒が一撃で獲物を死に至らしめるように、トレイズによる『救済』もまた、一瞬にして果たされる。


 勿体ぶる様に、息継ぎを一つ。

 トレイズは己の得物を、強く、ずぶりと引き抜いた。


「《暁ノ大蛇、導トナリテ世ヲ救ウブラッドレイン・メサイアイコル》」


 空に、無数の顎が姿を見せた。いいや、それは錯覚だ。正確には異端世界の門が、トレイズの妖刀に侵されていた患部を中心として、新出雲市全体の上空に開いたのである。

 門の全ては、モールトンの家が代々契約してきた異端世界、妖刀の生まれし紅の地獄へと繋がっている。焦げ付いてしまうほどの冷気、凍てついてしまうほどの灼熱。相反する世界の法則は、まさに人が新たな世界に踏み出す、その第一歩に相応しい。


 名を、《救済ヲ待ツハ鮮血ノ海ジュデッカ》。トレイズがかつて信じた教えにもその名を記す、魔王の住まう異端世界だ。


 その魔王が、救世主に代わってこの世界を救う。聖杯に注がれた葡萄酒の代わりに、異世界の門という杯に注がれた赤き血潮。あの一滴一滴が《血清》の原液だ。触れただけで瞬く間にレートは急上昇し、異端世界への住人へと生まれ変わろう。


 ああ、見るが良い。今まさに、聖なる血は杯から溢れ出た。トレイズの《異法行為イリーガル・アーツ》の名の通りに、魔王の葡萄酒が、無数の水滴の形を取った。


 紅の雨が降る。街の全てを救済するため、降り注ぐ。もう誰にも止めさせはしない。古の教えよろしく、今日こそが「最後の審判の日」だと言わせてもらおう!

 トレイズは、救済の雫が地に堕ちる瞬間を一目見ようと、その身を目一杯に屈めた。鷹か蛇、ともかく捕食者を思わせる碧い目が見つめる先で、最初の一滴が今まさに着地せんとする。あと九寸、あと六寸、あと三寸。


 そうして、いざ『救済』の連鎖が始まる、その瞬間に。

 ――世界が、動きを止めた。


 はじめ、トレイズは一秒前と同じく、《血清》の原液が大地を潤す瞬間を今か今かと待ち望んでいた。表情は不気味であったが、無邪気で、いっそ子供じみてすらいた。それほどまでに、彼は救いの時に心を躍らせていたのである。


 だがその瞬間が未来永劫訪れないことに、彼は極めて素早く気が付いた。それは一種、彼の《異端者》としての、戦闘者としての本能じみたもののせいであったのかもしれない。


「どういうことだ、何故私の『救済』が実行されない?」


 雫が、一行に地面に落ちないのだ。

 おまけに天を埋め尽くす世界の揺らぎ……異端世界の門に注がれた祝酒の潤動すら、見事に動きを止めている。それどころか、トレイズ以外の新出雲市に生きる全ての生命が、ものの見事に静止していた。冷たくなびく風さえ感じない。


 その様、まるで世界そのものが凍り付いてしまったかのごとく……いいや、待て。

 世界が……凍り、付いて?


「まぁ、そう簡単に『救済』させるわけにはいかねぇ、っつー神様の思し召しだわな」


 真後ろで聞こえた声に、トレイズは殴られたような衝撃を受け、振り向いた。

 彼が足を乗せる、コロッセオの外壁断面。そこに、いつの間にかもう一つ、別の人物が立っている。面妖な黒の仮面。やはり面妖な黒のフーデッドコート。身の丈ほどもありそうな得物を『二振り』構えたその姿。間違いない、六年前、トレイズを殺したあの男だ。


「貴様……!」

「よう、トレイズ。借りを返しに来てやったぜ。六年前と、ついでにさっきのと、な」


 数時間ぶりの再会に、彼は軽薄な挨拶を返してくる。仮面の奥に隠れた顔が、不敵な笑みを浮かべる様を、いとも簡単に想像できた。

 そんな彼の態度に、構えた紅の斬馬刀と、以前は見なかった白銀の鎌が不平を漏らす。


『ついで、は酷くないですか?』

「こ、言葉の綾ってやつだよ。ほら、《大戦争》のときに仕留めておけば、こんなことにはならなかったわけだし……」

『言葉の綾とはいえども紡いではならない台詞を把握していないのは兄様の悪い癖』

「……ああもう、わかったわかった、俺が悪かった!!」


 仮面の青年はがりがりと頭を掻くと、とにかく、と、斬馬刀を構えた方の手の指で、トレイズをびしりとロックオン。


「てめぇの『狩り』も『救済』もここで終わりだ。お縄についてもらうぜ……!」

「馬鹿な……馬鹿な馬鹿な馬鹿な! 我が『救済』に不備はない! 我が『救済』は、万事滞りなく、正統に遂行されるはず! 貴様は一体なんだというのだ! そのような異端、あり得るはずもない……!」


 それはたとえ相手が、一度は自分を殺した『いれぎゅらぁ』だとしても。

 トレイズの内心に、混乱と焦燥が満ちていく。


 計画は完璧だった、とまでは言うまい。トレイズ自身、お世辞にも己の伝道が世界で最も優れたものだとは思えなかった。きっと彼を超える、もっと救世主に相応しい人間ならば、更に素早く、より確実に、人々を強者の域へと押し上げ、『救済』してみせたに違いない。


 だが、誰にも止められない計画ではあった。救世の血潮は雨粒となって、人々の身体へと吸い込まれていく、そのはずだったのに。覆水は盆に返らぬが道理であるはずなのに。


「だったら覚えておけ。てめぇの計画は正統にはならない。何故なら俺がそれを阻止する。俺は《第三最大異端》――」


 トレイズの《血清》は、この黒き覆面の騎士一人の手で、いとも簡単に押しとどめられてしまったのだ。


 いいや、違う。

 騎士一人だけでは、ない。


『兄様。それを言うなら』


 紅の斬馬刀が、明星を思わせる光を明滅させて。


『俺たちは、ですよ、先輩』


 白銀の機械鎌が、氷河のごとく透き通った声で、そう告げる。


「──ああ。俺たちは《第三最大異端》バァル=アスタナトライ。てめぇの計画を異端に変える、世界最大の異端者イレギュラーだからな……!」


 それこそが、トレイズの計画を阻む者の名。

 止まらぬはずの時を止め、返らぬはずの祝酒を返し、二度もトレイズの価値観をバラバラに破壊して見せた、金木犀の剣神の名。


 どんな正統をも異端に変える、正真正銘の最大異端イレギュラー・ロード――!


「う、うぉぉ、うぉおおお……!」


 獣が怒りに唸るがごとく、トレイズは恨みと憎悪に喉を鳴らす。

 その声に呼応して、和装の巨躯からどす黒い血煙が上がった。禍々しいオーラは、行き場を失った魔王の葡萄酒が、契約者という杯に余さず注がれたかのよう。その証左に、空に開いた門そすべてが、瞬く間に消滅した。


「おぉぉのぉぉれぇぇぇえええええ!!!!」


 トレイズは《蛟血》を構えると、最早咆哮に近い絶叫を上げた。


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