桃太郎と桃子

佐藤ムニエル

第1話

   1日目


 なんとなく嫌な予感はしていた。いつになくかしこまった担当の態度。いつもはエントランスのソファーで形式だけの現状確認で済ませるのに近くのドトールに呼ばれたこと。予兆はいくつもあった。だから覚悟はできていた。

「来月いっぱいで契約終了ということで」ジャケットを着こみネクタイまで締めた担当が向かいの席で、頻りに汗を拭いながら言った。

「はあ」わたしは言った。それ以外に言葉が浮かばなかった。何がいけなかったのかと考える。考えてすぐに無駄だと思ってやめる。「あの、次のところって」

 担当が猛烈な勢いで啜っていたアイスコーヒーのストローから口を離す。「次?」

「次のところ。どこかありませんかね?」

「あ、ああ、次の。職場ですね」

 はいはい大丈夫探しておきますよと言いたげに、彼は手帳に何かを書きつけた。それが二度と彼の眼に留まることはないのだろうな、とわたしはぼんやり思った。

 オフィスに戻ると、既にそこはわたしがいていい場所ではなくなっている気がした。契約の更新がないことより、そこに漂う居心地の悪さが嫌だった。だから帰り道にはヤケ酒を飲んだ。仕事帰りに一人で飲み屋に入るなんて人生初の経験だったけど、こんな時こそそうするべきな気がした。そうしても許される気がした。

 我ながら結構飲んだ。酔った。このままどこまでも行けそうな根拠のない自信に押され、一つ手前の駅からアパートまでの道をふらふらと歩いた。

 土手の上で足を止める。川向こうを走る高速道路が、ちょっとした夜景を醸していた。道路を照らす灯りだったり車のライトなのだけど、ぼやけた視界にはなかなか煌びやかに映った。

 ふと、眼下に広がる河川敷に眼を移す。こちら側の岸の一角に、何かある。

 目を凝らす。暗くてよく見えないけど、ブイにしては大きい。誰かが捨てた粗大ゴミだろうか。

 いや、あれは――桃だ。

 気付けばわたしは自分の部屋にいて、台所の床に置いた桃を見下ろしていた。

「持ち帰ってしまった……」呟いても、それに対して何か言ってくれるような人はいない。

 とりあえず、水切り籠から包丁を抜いた。桃は「桃の形をした何か」ではなく、手触りからして正真正銘「大きな桃」だった。たぶん包丁を入れることは可能で、大きな桃ということは中には何かが、具体的には人が入っている筈だ。わたしが知ってる川で見つけた大きな桃は、そういうものだ。

 果たして、中には赤ちゃんが入っていた。それも男の子。果汁でヌメヌメしているわけでもなく、むしろ羨ましくなるぐらいしっとりすべすべの肌だった。

「桃太郎」状況的に、そう名付けないわけにはいかない。桃から生まれた桃太郎。

 赤ちゃんは突然、わっと泣きだした。火が点いたみたいに、なんて穏やかなものじゃない。大炎上だ。わたしは彼を抱え上げ、上下左右に揺らしたり背中をポンポン叩いたりした。恥ずかしいけど赤ちゃん言葉で呼びかけたりもした。弟の子供にだってこんな大盤振る舞いしたことがない。とにかく、総力を結集してあやした。ようやく彼が泣き止んだ時は酔いも覚め、激しい運動をした後のような疲れに襲われた。

 桃太郎は寝息を立てている。わたしもこのままベッドに倒れこんでしまいたかったけど、そうもいかない。赤ん坊というのはお腹が空けば泣くものだ。残念ながら、うちにはわたしがつまむような食べ物すら碌にない。重い身体を引きずるように家を出て、最寄りのコンビニへ向かった。離乳食の棚を探し当て、とりあえず三食分を買った。

 一体何をやってるんだわたしは、と自問しながら階段を上がり、玄関を開ける。

 違和感。

 わたし瞼を擦り、目頭を揉んだ。

 裸の男の背中があった。それは幻などではなくて、たしかにそこに存在した。

 代わりに赤ん坊の姿がなかった。切り分けた巨大桃も見当たらない。

「おかえり」男は振り返ってそう言った。歳はわたしとそう変わらないかもしれない。

「ただいま」わたしは言った。他に言葉が浮かばなかった。

 男は何か食べていた。手は汁のようなもので光っていた。果物の甘い香りが漂ってきた。

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