カクヨムコンNo.6(ショート)作品
ダイアログ
日が長くなった夏の、特に暑い日、僕は楽園にいた。もちろん極楽やエデンの園にいるわけではない。学生にとっての楽園、それは無論、クーラーのきいた部屋である。
僕は図書委員として、放課後の図書室のカウンターに座っている。とはいえ、人がいないから受付の仕事もなく、借りる人も少ないから返却された本を本棚に戻すのもすぐに終わって、暇になる。
あとの時間は宿題をしていたり、ボケーっとしていたりしている。
僕はこの放課後の過ごし方が好きだ。だから本来は曜日ごとの登板だったのが、全て僕が担当するようになった。みんなは部活に行きたいだろうし、ウィンウィンの関係、というわけだ。
―――キーン、コーン、カーン、コーン…………。
最終下校前のチャイムが鳴った。僕は念のため、図書室内を巡回した。誰かを閉じ込めてしまうといけないからだ。
「ん?」
読書コーナーの長机の端に、一人の女子生徒が座っていた。文庫本を熱心に読んでいるようだった。肩にかかるぐらいの髪は、夕日に照らされてキラキラしている。
「あのー、もう閉館時間ですよー」
反応がない。
「あ、あのー。もう閉めますよー」
やっぱり反応がない。
「よーし、じゃあ閉めまーす。閉めますからねー。クーラーを切ったここがどれほど暑いか。知りませんよー」
僕は彼女に聞こえるように大きな声で言いながら、荷物を持って外に出た。
そして、鍵を閉めた。
すると、扉の奥からこちらに走ってくる音が聞こえ、目の前の扉をドンドンとったく音がした。
僕が鍵を開けるや否や、
「閉めるよ、って言って本当に閉める人初めて見た。何考えてるの? ねえ、本当に。なんて冷酷な人なの?」
と、矢継ぎ早に罵られた。
「いや、だったら反応してよ。五分ぐらいなら待ってあげたのに」
「それは、人と話すために切り上げるには、きりの悪いところだったからよ。図書委員ならそれぐらいわかるでしょ?」
「そ、それは……」
「―――まあ、いい。じゃあ一つ」
彼女は一冊の本―――先ほど読んでいた本だろうか―――を差し出し、貸出お願い、と言った。
***
「ねえ、人間の感情って、何なんだろうね」
彼女は唐突に言い、本を差し出した。
「感情ってそりゃ、楽しいとか悲しいとか、腹が立つとか、でしょ」
僕は受け取り、そう返す。本の情報がまとめられたファイルの中から、渡された本のタイトルを探す。
「えーと……あった」
「で、私が知りたいのは、人間の感情は本物かどうかってこと。君の意見を聞かせて」
「本物って、そりゃそうでしょ。嬉しいことがあったら嬉しいし、悲しいことがあったら悲しい。これが偽物だったら、何が本物なの?」
僕はバーコードをスキャンをし、彼女の話に耳を傾ける。
「例えばさ、君が今からこけたとする。その時に私は心配な気持ちになるのだろうけど、そんな君を見て面白くも思うかもしれない」
「いや、ひどいなそれは」
「例えばの話だって。で、どっちが本物の感情なのかな」
「そりゃ両方でしょ。まあ、片方は認めたくないけど」
僕は今日の日付の書かれたハンコを、紙のしおりに押す。
「でも、もしかしたら片方は本人の願望なのかもしれないよ。例えば、私が君に恋しているとする」
「ええっ?」
僕は本に挟もうとしたしおりを、折り曲げてしまう。
「でも、その感情は本物かどうかはわからない。もしかしたら、その感情は相対的なものなのかもしれない。その時、君に勝る存在が出てきたら、君への感情はなくなるかもしれない。あと、その感情がほかの感情に誘発されたものかもしれない。他に悲しいことがあって、それを打ち消すために作り出した、偽物の感情かもしれない」
彼女の話は長く、妙に理屈っぽかったため、理解するのに苦しんだ。
「それでも君は、その感情が本物だって言える?」
僕は新しいしおりにハンコを押し、本に挟んだ。
「僕は、そもそも人の感情なんか、主観的で乱暴だから、生まれたものは全部本物だと思う。仮にそれが一時の偶然で生まれたものでも、永遠に残り続ける刻印のようなものでも、それは自分の身から出た、本物だと思う」
「じゃあ、本物はいくつあってもいいってこと?」
「まあ、真理とかになると話は別だけど、人間に関するものなら、嫌でも複数になると思うよ、僕は」
はい、と本を渡し、一週間後に返してくださいね、と事務的な内容を伝えた。
「ふーん。ありがと。参考になったよ」
彼女は本をカバンの中に入れた。
「よし、じゃあ帰ろっかな」
「早く帰ってよ。ただでさえ時間過ぎているのに、貸出までしてあげたんだから」
「そう言って待ってくれる辺り、君はツンデレかな?」
「はいはい。出てって出てって」
つれないなー、と言う彼女を無理やり外に追い出し、僕は鍵を閉めた。
***
「で、なんでまだついてくるの?」
「いいでしょ。もう誰もいなかったんだから」
僕が鍵を職員室に返し、学校の門をくぐったところに、彼女は待っていた。
「家、こっちの方面なの?」
「そうだよ。最近引っ越してきたんだ。この辺りは通学路以外は、どうなっているのかは、まだ……ね」
「そうなんだ。何年?」
彼女はピースを作った。
「そっか、じゃあ同い年だ。じゃあ一組か。僕二組だから」
最近の少子化のせいで、公立の中学校でも、クラスは二つほどしかない。僕の通う中学校も、全学年二クラスしかない。
「いや、二組だよ? まさか忘れてるのかな?」
彼女は目を見開いてこちらを見た。少し怖い。
「え、いっ、いやぁ……も、もちろん。覚えてるよ。うん」
「じゃあ、私、何て名前?」
僕は窮地に立たされてしまった。
実のところ、僕には彼女の記憶がない。転校生が来たなら、必ず覚えているはずだ。僕はクラス全員の顔と名前が一致しているから、忘れたなんてことはないはずだ。だけど……。
僕は、何も言い返せなかった。
「やっぱり忘れてるんだ。ひどーい」
「ご、ごめん」
「なんとなく察してたよ。さっき話してた時も、知らない人と話しているみたいだったし。そもそも、知っている人相手に、何年かなんて聞かないよね」
「ほ、ほんとに申し訳ない……」
「まあ、明日からこの学校に通うから、仕方ないけどね」
「ほんとにごめ……え?」
彼女はニヤッと悪そうな笑みを浮かべ、背中をポンポンたたいてきた。
「知らないのも無理ないよ。今日初めてこの学校に来たからね。明日、君のクラスに入るから。この制服も調子に乗ってきただけで、少し前までは私服だったし」
「だ、騙したなー!」
「ふふっ。騙される方が悪いんだよ」
彼女は笑いすぎて、苦しそうに言った。
「君はすごく面白いね。それに本好きだし。これから仲良くしようね」
ひとしきり笑ったあと、彼女はこちらに手を差し出してきた。
「よ、よろしく」
僕は彼女の手を握ると、自分の手の小ささに少し悲しくなった。
「君の手、ちっさ」
「うっ」
今の自分に一番効く言葉だ。
「私ピアノやってたから、人より多少大きいんだけど、男子にはほとんど負けてたんだよ。そういえば、今目線があってるってことは、背も低いんだ」
「ううっ」
言葉のダブルパンチが、僕の腹をえぐるようにぶつかってきた。それでかなりのダメージを受けているのを見透かしたかのように、彼女は「小さい」と、何度も言ってきた。
「そ、そのうち頭一個分ぐらい大きくなるし。手はまだしも、身長ぐらいは」
「それはどうかなー。私ももっと大きくなるかもしれないよ。モデルぐらいになるかもしれないし」
彼女は鼻を鳴らした。遺伝的にそうなると自負しているのかもしれない。
「はぁ。まあいいよ。割と身長のことは言われ慣れているから」
「その割にはガード柔らかいね」
「う、うるさい……あ、僕こっちなんだけど」
僕は進行方向を指さした。それに対して、彼女は左を指した。
「じゃあ、また明日」
と言って家に帰ろうとした時、彼女は困ったように沈黙していた。
「もしかして、帰り道怪しい?」
「い、いや、帰れるよ……多分」
「あのさ、もしよかったら、家まで送ろうか? 目印になるものがあったら、そこまで送るし」
「…………いいの?」
彼女の表情にはもはや、先ほどまでの自信はなかった。
「仕方ないなー。連れてってやる」
僕たちは左に曲がった。隣から小声で「一勝一敗」と聞こえてきた気がした。
*****
「なあ、この机、何だと思う?」
朝礼前の時間、僕の友達が隣の席―――昨日までなかった机に座っている。
「どうだろ。教育実習生とか?」
僕は昨日のことを知らないように装った。
「もしかしたら、転校生じゃね? いいなー、お前隣の席って、一番色々話せるじゃん」
「別に話に来たらいいだろ。休み時間とか」
他のクラスメイトも、僕の隣の席に、少なからず興味を持っているようだ。
―――キーン、コーン、カーン、コーーン……。
チャイムが鳴って少ししてから、先生が彼女を連れて、教室に入ってきた。もちろん、教室は大騒ぎだ。
先生は、パン、と手をたたいて生徒を静め、
「今日は朝の連絡の前に、転校生の紹介をしたいと思います」
と言い、彼女に自己紹介をするよう促した。
彼女は達筆な文字で黒板に『桐谷栞』と書いた。
「
彼女はお辞儀をし、自己紹介を続けた。
「得意なことは、ピアノと運動。好きなことは本を読むことです。気軽に話しかけてください」
クラス中から拍手が起こった。彼女はそれにお辞儀と、笑顔で応えた。
***
「ねえ、さっさと本の整理、終わらせてよね」
放課後、誰もいない図書室に来た彼女―――栞は、本を読まずに、僕に話しかけてきた。
「はいはい」
彼女が転校してきて一週間、ようやく彼女の周りは落ち着き、毎時間人だかりができるようなことはなくなった。
僕が受付の席に腰を下ろすや否や、彼女は
「少し話さない?」
と、言った。
これから彼女はどのようなことを話すのか。
少し期待する僕は、彼女の話に、今日も耳を傾ける。
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