第九話 姉なるもの



 講堂に全校生徒を集めて執り行われた退屈極まりない一連のイベントも何事もなく終了し、教室に戻った俺たちに大神教諭から今後一年間のおおまかなスケジュールについて説明があった。そのあとは早くも下校の時間である。本格的に授業が開始されるのは明日からだそうだ。


 だが俺はすぐに席を立つことはせず、ぼんやりと自分の左側にある開け放たれた窓の外へと視線を彷徨わせていた。とはいうものの、とりわけ何かやり残したことや気掛かりがあるからではない。何のことはない、他の連中が教室を出るのを待っているだけである。


「あの」

「……」

「え、えーっと……。あ! ねえねえ!」


 たまに――そう、ごくごくたまに、純粋なまでの好奇心から声をかけてくる奴がいたが、俺は気付かないフリをする。向こうも向こうでそこまでの興味を抱いた訳でもないのだろう、さらにもう一歩踏み込むような真似はせず、手近にいたとっつきやすい存在を見つけてしばし会話に花咲かせると、やがて連れ立って教室を後にする。


 こんな光景も毎度のことだ。


 少し気が引ける思いもないではないが、これでも俺は俺で結構気を遣っている。俺のような輩にあからさまに無視されたらそれなりに気分は悪いだろう。あ、俺? 俺に声かけたの? ごめーん全然気づかなかったー! くらいの台詞は準備していたし、クラスに残る人数がまばらになってきた時点で、さりげなく席を立つくらいの分別は持ち合わせている。


「さて――と」


 そろそろ頃合いだ。


 まだ何人かが教室に残り、きゃっきゃうふふととりとめない会話に花咲かせていたが、机の脇に掛けていた鞄を一気に肩にかけて、その脇をするりとすり抜けるように教室を出る。


「……ス」


 念のため、すれ違いざまに小さく会釈することも忘れない。俺の望みは、孤立することではなく孤独でいることなのだから。最低限の礼節は当然のように求められる。


 がらんとした校内は少し居心地が良かった。


「……おい。ちょっといいか?」


 だが、昇降口へと辿り着く前に横合いから不意に声がかけられた。少し予想外だったが、動揺することなく足を止め、だらしなく伸びた前髪の隙間から声のした方向を慎重に覗き見る。見慣れた顔がそこにあった。


「はあ……何スか?」

「何スか、じゃないだろう、一番合戦いちまかせ?」


 大神教諭は、眉間の皺をほぐしでもするかのように額に指先を添え、力なく首を振った。


「お前な……可愛い生徒が、ブラック企業に勤める社畜然とした虚ろな瞳をして歩いていようものなら、私はついつい優しい声をかけずにいられないだろうが。そうは思わないかね?」


 優しい、の言葉の定義を知りたいです、はい。


「い、いや……これでも結構平常運転なんスけど」

「ああ、だろうさ。無論知ってるとも」


 大神教諭はつい苦笑を浮かべる。そのぎこちない笑みは苦い方にかなり偏っていた。


「ちょうど人手が欲しかったところでな。どうせ暇なんだろう? 手を貸したまえ」

「………………はあ」


 仕方なくあとをついていくと、資料室の戸の前でしばし待たされる。かと思ったら、再びその中から姿を現した大神教諭に明日配布するつもりらしい大量のプリントの束を有無を言わさずどさりと預けられてしまった。


「……重」


 このデジタル全盛のご時世にいまどき紙ッスか、とツッコミたくもなったが止めておく。俺だって命は惜しい。と言うか、ご自分では紙切れ一枚持たないんですね。先生、さすがです。


「行くぞ、一番合戦」


 こうなると任務完了までついていくしかない。人気のない廊下に、俺の上履きが醸し出す覇気のない足音と、大神教諭の硬質のヒールの音が、かつーん、ぺたーん、かつーん、ぺたーん、と響く。なかなか悪くないセッションだと思っていたのは俺だけだったようで、じきに前を歩く大神教諭が肩越しに振り返って不平を溢した。


「おい、何か気の利いたことでも喋れんのか?」

「特にないっすね」

「まったく……」


 無茶振りもいいとこである。大神教諭は少し、ほんの少しだけ声のトーンを和らげると、拗ねた様に唇を尖らせて見せる。彼女のこういう一面を垣間見ることができるのは、恐らくこの学校でも俺くらいなものだ。かと言って、特段嬉しいかと問われるとそうでもないんだが。


「おい、私とお前の仲だろう? そう邪険にするなよ……志乃ちゃん、泣いちゃうぞ?」

「そんな台詞、他の誰かに聴かれたらきっと誤解されるんじゃないかと思うんスけどね……」

「それはない。何せお前だぞ? 学園のマドンナたる私とお前がか? ないない。ないとも」


 溜息混じりに返した台詞に大神教諭は心底可笑しそうにくつくつと笑いを噛み殺していた。俺の方はそんなものだとしても、ご自身の評価に客観性が欠けていると思うんですけども。


 ――と、突如距離が縮まり、ふわりとした匂いが鼻腔をくすぐった。脇腹にはぐぐっと暴力的なまでのボリュームを誇る胸元が惜しげもなく押し付けられてくる。大神教諭は俺の肩に手を回して耳元で小さく囁いた。


「ま、あれだ――私たちのを知っているのは、学園長とアリスくらいだ。心配ない」

「……はあ」


 それでも俺は鼓動を速めることもせず、平常運転のまま溜息を音声に変えて応じる。それがよほど面白くなかったのだろう。大神教諭は肩に添えた手を俺の首元にしゅるりと滑らせると、プロレス技で言うスリーパーホールドのような体制で首を絞める真似をしてきた。


「ほんっと! 可愛くないな! お前は! 学校でのお前は、本当に感じの悪い、社交性に欠けた反抗的な生徒だな、ん? 大体、さっきのアレ、何だ? はあ、とか、へえ、とか――」


 ぐっぐっ。

 う、入ってる入ってる。


「い、いや、悪気はないんスけどね……」


 無理に振り解くことはせず、いささか強めに首を絞められながら俺は答える。大神教諭のこういう押しつけがましい距離の近さにはすっかり慣れていたし、時折、そう、本当にごくたまに、こういう他愛もないやりとりに妙な安心感を覚えることもある。


「……今晩はどうする? 何かリクエストはないか?」

「ん」


 な? とすぐそばの顔が問いかけてくる。何か気の利いた返事を期待されているのは分かるのだが、この大神教諭には決定的に欠けている素養があった。


 それは――家庭的スキル全般。


 ちらり、と今一度周囲の気配を探ってからくぐもった咳払いを一つすると、少しばかり声のトーンを変えて答えてやる。


「……ま、晩飯はいつもどおり浅葱あさぎが作るし。せいぜい遅くならないうちに帰ってきてくれ」

「ち――。ったく……たまには私に花を持たせろよ、ばか」


 大神教諭は呆気なく身体を引き剥がして、今度は子供のようにぷくーと頬を膨らませている。それから食い下がるように言った。ちょっとムキになっているあたりも子供っぽい。


「ほ、ほら、あれだ。お前たちが小さい頃はいつも私が腕を振るっていただろ? 忘れちゃいまい。チャーシュー抜きチャーハンとか、肉抜きチキンライスとか、具なしオムライスとか」




 おや? チャーハンのようすが?




 ケチャップ進化に卵進化、ポケモンみたいなアレのことか。確かに懐かしい思い出の味には違いないけれど、ひとたびコンボが発動すると毎日が憂鬱だったなあ。何度Bボタンを探したか分からない。ないんだよな、Bボタン。


 なので。俺に迷いはなかった。


「チェンジで」

「むー……!」


 いい大人が、本気で悔しそうである。その様がますます子供っぽく見えてしまい、思わず噴き出しそうにもなったが、何とか堪えて無気力全開な態度をキープする俺。




 何だかんだ口では言っても、俺はこの大神教諭のことが好きだ。




 だがそれはもちろん、この大神教諭――いや、志乃姉こそが俺たちの姉であり、保護者だからに他ならないのであった。



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