罪人は己が欲を知る
薄汚れたスラム街の路地裏。
目の前に突如として現れたアスモデウスと名乗る怪しい男の言葉を頭の中で反芻する。
「い、異界?神?」
その意味を理解しようと口に出すが、やはり理解は追いつかない。
神という存在は知っているが勿論会った事などない。
俺はそれほど信心深い方ではないし、宗教に傾倒してもいない。
だが、それでも目の前の存在がただの人間でない事だけは本能で理解した。
「訂正を求める。吾輩は凡庸なる"神"ではなく"魔の神"である。其方の知り得る言葉で呼ぶならば、魔神といったところであろうか。」
「魔神……だと?」
神話など大して詳しくない俺でも知っている。
絶対的な善である神の対となる存在、それが魔神だ。
「あくまでも其方の知識に照らし合わせるのであれば、そう呼ぶのが適当であるという話である。吾輩は異界の存在である故、その存在を其方が正しく認識するのは不可能なのである。」
「よくわからんが……その魔神とやらがこんな所に何の用だ?こいつらをヤッたのはあんたか?」
一面の血の海と散らばった肉片を指して問う。
「肯定しよう。吾輩が
「……随分と自分勝手な話だな。魔神ってのは何でもやりたい放題なのか?」
「厨房に現れた虫ケラを踏み潰すのに、わざわざ虫ケラの事情を忖度する者があるか?」
変わらずの笑みで凄惨な事を宣う。
やはりこいつは危険だ。
「それはそれとして、何の用…と問うたか。吾輩が異界より転じた目的は、吾輩の使徒を作る為である。」
「……使徒?」
聞き慣れない言葉だ。
「使徒とは神の権能の一端を授かる者。神の寵愛を受けし者。神との契約を結びし者である。」
「いまいち…理解できないんだが。」
「良い。無知は罪ではない。無知を許容する精神こそが罪なのである。吾輩から無知な其方に知を授けよう。」
知らないなら教えてやる、という事で良いのだろうか。
「あらゆる世界に存在する神と呼ばれる者は、権能という特殊な力を持っておる。魔の神である吾輩もこれに違わんのである。」
「特殊な力…」
「神と契約を交わし、その寵愛を受けし者は使徒となり、神の権能の一端を授かる事ができるのである。」
「つまり、使徒になれば契約した神の力の一部を使えるってことか?」
「肯定しよう。」
「それで、あんたはその使徒とやらを作る為に……つまり、誰かと契約を結ぶ為にこの世界に来たんだな。」
「肯定しよう。」
「何故わざわざこの世界に来た?元の世界では契約できなかったのか?」
「かの世界では吾輩の名は広く轟いているのである。教会の監視が厳戒である故、適性者を探して契約を結ぶ事は非常に困難なのである。」
「適性者?誰にでも契約を結べるわけじゃないのか。」
「肯定しよう。強い権能を持つ神との契約は、より高い適性が必要になるのである。吾輩は魔の神として上位に君臨している故、適性者を探すのは特に困難なのである。」
「それで適性者を探して使徒にする為に………そもそも、何故そこまでして使徒を作ろうとするんだ?」
「権能は普遍的なものではない。使わなければ劣化する欠陥品なのである。そして劣化し続け権能を失った神は、消滅するのである。」
「あんたの権能も劣化してるのか。わざわざ異界で使徒の適性者を探さなければならないくらいに。」
「吾輩の力はそう簡単には衰えん。まだあと数千年は問題ないのである。しかし、あまりに悠長にしていると異界に渡る力さえ無くなる可能性がある故、こうして吾輩の権能が健在な内に契約を結ぶ必要があるのである。」
「………そんなあんたが俺の前に現れたのは……」
「其方の察する通り……其方に吾輩の使徒たる適性を見たが故である。」
「俺が適性者……俺は何の才能もない凡人だぞ?大した能力もない、一介の冒険者にすぎない。」
「使徒の適性は完全に生まれつきのものである。その者の生い立ちや能力は無関係なのである。」
「そうなのか。」
「其方からは非常に高い適性を感じるのである。更に、強い負の感情も見える。魔の神である吾輩の使徒として申し分ないのである。」
「負の感情……」
「其方の事情は吾輩の預かり知るところではない。其方がこれから先、何をしようとも吾輩には関係ない。ただ吾輩と契約を結び、その権能を使えば吾輩の望みに叶うのである。」
「つまり、与えられた力さえ使えば俺がどこで何をしようとも関与しない、と。」
「肯定しよう。そもそも、使徒を作る事ができれば吾輩はこの世界に用はないのである。また次なる異界へと転じるだけである。」
「………あんたの権能ってのは、何なんだ?」
「吾輩は複数の権能を所有しているのである。契約の後、どの権能が使徒に授けられるかは、不明なのである。」
まじかよ。
やってみないとわからないってか。
体が作り変えられたりしねぇだろうな。
………というか、何故俺はこんな話に前向きになってんだよ。
神の権能なんて手に入れて何をしろってんだ?
もう俺には夢も希望もねぇのによ。
「………悪いが他を当たってくれ。権能なんて、俺には過ぎたる力だ。俺にはその力で成し遂げたい事とか、何もねぇんだよ。」
「本当にそうであるか?」
肩を竦める俺をアスモデウスが笑みを崩さず見詰める。
心の内まで見透かされているような不思議な視線だ。
「吾輩にはわかるのである。其方の心は酷く汚れておるぞ。欲に塗れた、
「な、何言ってんだよ…俺は……」
「恐れるでない人間よ。知性ある者にとって、欲とは本能であり知恵なのである。欲なき人間に力は宿らず。人間は欲をもって己の心を癒すのである。さぁ人間よ。己の欲を感じるのである。」
「欲………」
「吾輩の力を授かれば、全てを変えられるやもしれぬぞ?地位も名誉も思いのままにできるやもしれぬ。」
「地位…名誉……」
経験とちょっとばかりの実力だけが取り柄の中堅冒険者でしかない俺が、かつて幾度も夢見た英雄になれるかもしれない。
「力さえあれば、欲する女を全て己のものとする事もできるのである。」
「欲する…女………」
欲する女……愛する女……
脳裏に浮かぶ最愛の幼馴染。
俺を裏切ったあの女を……俺のものに。
「目の色が変わったのであるな。それが其方の望む最も強き欲であるか。」
「俺は……俺は………」
こんな話、受け入れる必要もないと思っていた。
だが、断る理由はもっと無いのではないか?
どうせこのまま朽ちるだけの人生だ。
自分勝手に生きて何が悪い。
俺があいつらに何をした?
俺は何故裏切られた?
俺に力が無かったから?
俺に魅力が無かったから?
人は自分に無いものを欲する。
それを手に入れられないなら諦める。
人はそうやって妥協していく。
人はそうやって己の分を知っていくのだ。
だが欲するものを手にするきっかけを与えられたなら、諦めるという選択肢など誰が採ろうか。
俺にはそのきっかけが与えられた。
悪に満ちた邪悪なる手が差し伸べられた。
俺はいつの日か、この選択を後悔する時が来るのかもしれない。
自らに失望する時が来るのかもしれない。
だが、それがどうした。
後悔など数えきれない程してきた。
これまで幾度も己に失望してきた。
『アーシュ君、これからもずっと一緒にいようね!!』
いつの日か彼女に言われた言葉。
その時の彼女の笑顔は今でも忘れない。
その笑顔にずっと救われてきた。
だが、今となってはその笑顔が俺の心を締め付ける。
憎しみに似たドス黒い感情が心を支配する。
「人間よ、己の欲に嘘はつけないのである。」
「………俺は、許せないんだ。弱い自分も…俺を裏切ったあいつらも……何もかもが!!」
邪悪なる魔の神がより一層深く笑う。
「人間よ、強大なる魔の力をもって、全てを手に入れるのである。」
もはや、俺の心に迷いは無かった。
怪しく光る紫の瞳を強く見返す。
「あんたの言う通りだよ。」
「俺は……罪人だ。」
俺は、悪魔の手を取った。
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