36.執着
あの指輪はオスカーがいつも身に着けていたお守り。
複雑な意匠が凝らされていて、不思議なアクセサリーだと思っていた。
目の前の光景に息を呑んだ。
オスカーの髪は次第に色が変わってゆく。根元から毛先にかけて、月明かりに照らされて透けるような金色になっていった。
彼が髪をまとめるのに使っていたリボンが、はらりと床の上に落ちた。
閉じていた目を開けられると蒼い瞳が現れる。
今目の前にいて私の手を握っているのは、マクシミリアン殿下の姿をしたオスカー。
海の中のような色の瞳が私を見下ろす。昨夜の殿下を思い出して身じろぎしてしまったが、手を握られていて離れられない。
そのまま腕を引かれて抱きとめられた。
殿下の姿だけど、断りもなくそうしてくるのはオスカーらしい。
「……オスカー? 色んな魔法が使えるのね。驚いたわ。殿下に変身するなんて……またふざけてるの?」
「オスカーは私の借りの姿。この指輪のおかげで私は他者になって足りないものを埋め合わせられました。そうでもしないと不安で気が狂いそうでした。私は第一王子という身分以外何も無い人間なのですから」
安心したのも束の間だった。頭の上から降ってくる殿下の声に心臓が止まりそうになる。
口調もつゆ違わない。今、背中に腕を回している人はオスカーではなく殿下だ。
嘘だ。
同じ人なわけがない。
オスカーと殿下が入れ替わったようにしか思えない。
彼と殿下とでは性格が全く違う。
姿と声を変えるだけでは成り代わることができないくらいに。
それに殿下は、オスカーはご自分の影だと仰ったはず。
目の前の人物は、誰?
顔を離して相手の姿を見る。どう目を凝らしても、この人物はマクシミリアン殿下そのもののように映る。
「お、オスカーはどこに行ったのですか?」
「ここにいますよ。彼は私の影。表裏一体の存在です」
殿下はご自分の胸に片手を当てられた。
「国民の声を聞くこと、国民の生活の実態を知ること、母上の墓参りもアレクに会いに行くことも
自嘲気味に笑う彼の目に寂しさが宿る。
「オスカーの姿であなたに話しかけたのは思いつきでした。あなたが普段はどのような人なのか気になったからです。おかげで色んな姿を見ることができました。ふざけ合うなんてマクシミリアンではできなかったのですから」
お気楽者で、よく仕事をサボっていて、適当なオスカー。
信じられない。
殿下がオスカー・ホフマンを演じていたというの?
それに主君と影が同一人物だなんてあり得ない。そんなことをすれば何のための影になる?
主君の代わりが影であるはずなのに。
そんなにも殿下は1人で何もかも背負い込もうとしているというのだろうか?
彼の声にどこか危うさを感じる。
いつも通り静かにお話されているが余裕が無いのが伝わってくる。
「不機嫌な声も、意地っ張りな言葉も、私を諫める表情も全て愛おしくて新鮮で、もっと引き出したくなってしまい何度もオスカーとしてあなたの元に行きました」
殿下はオスカーの姿になり私をここに連れてきた。
誰にも妨げられないように。
オスカーは殿下の不可能を可能に変える存在。
ブラントミュラー卿の言葉が思い出される。
彼はオスカーの正体を知っていたのかもしれない。護衛筆頭で、殿下とは長いつきあいだし好敵手で競い合っていた間柄なのだから。
ブラントミュラー卿の言っていた深い闇とは、何?
「リタ、私のことをどう思っているのか聞かせてください。ここなら誰にも聞かれないし邪魔されません。誰も入ってこられないのですから」
私は説明したつもりだった。
それでも彼が問うのは、昨夜の説明では足りなかったからだろうか。それとも、私は殿下への気持ちを隠せていなくて知られてしまったのだろうか。
どうしたらいい?
打ち明けたら私は本当に戻れなくなってしまう。
半端な自分を呪いたい。
未熟さに甘んじていたから何度もこの状況に陥るのだ。
身体を離そうとしても、殿下の腕に力がこもるばかりで思うように動かせない。
「殿下は素晴らしい御方です……そんな殿下のために素敵な
「……何度も伝えただろ? リタに傍にいて欲しいって」
声は殿下なのに、まるでオスカーのようにお話される。
オスカーのように方眉を上げる殿下。
混ざり合った2人の彼。
しっかりしないと私は彼らから逃げられない。
殿下への想いを知られてしまう。
頭の中でぐるぐると思考が行ったり来たりする。
私に影の正体を明かした殿下の真意やブラントミュラー卿の言っていた闇の真相についての憶測が。
「このままここにいてくれ。誰にも傷つけさせない。俺が守る。マクシミリアンを見るのも嫌なら、リタの前ではずっとオスカーでいる。消えないでくれ。リタが居ない日常を想像できない。俺をひとりにしないでくれ」
頭に殿下の頬が寄せられる。
彼の声が、オスカーの言葉が、助けを求めてきているようで泣きたくなる。
私は知っていた。
彼の抱えている孤独をブラントミュラー卿から聞いていた。
殿下は駆り立てられるようにオスカーになる。
オスカーはマクシミリアン殿下の抱えきれなくなった闇を逃すための存在。
駆り立てているその闇の正体は……孤独。
でも、私は彼の気持ちに応えられない。
いずれはティメアウス王国を去らなければならない。
オスカーは殿下の求めるものを手にするための影。
殿下は本当に私をここから出さないつもりなのかもしれない。
しかし、それでは私は繁栄の魔法を発動させることができない。
はい、と言えたらどれほど良かっただろうか。
そんなことをしてしまえば私は大切な殿下とティメアウス王国のために何も成せないままになってしまう。
「殿下、お気づき下さい。あなたを必要とする方はたくさんいます。私は結びの魔法使いとしてそんなあなたとティメアウス王国の未来のために繁栄の魔法を発動させたいのです」
諫めるように名前を呼んでくる殿下。海の中奥深くのように深く暗い蒼色の瞳が刺すような視線を向けてくる。
目が離せない。
その中に飲み込まれてゆく。
「リタ、残酷だよ。完全には突き放してくれない。だから俺は手に入れられるのではないかと希望を持ってしまう」
大きな手が私の頬を包む。力が込められていないはずなのに、顔を動かせなくなる。
言葉を失った。
曖昧な態度をとっていたのを思い知らされる。ためらいや詰めの甘さが、半端な気持ちがもたらした結果だ。
「家業の話を持ち出して話を逸らすのも、別の人間と引き合わせようとされるのも、いつまでもお師匠様から貰ったものを身に着けているリタを見るのも……辛いよ」
頬に添えられていた手が動き、ピアスに触れた。ピアスは殿下の手を拒むように魔法を放っている。
バチバチと音を立てて彼の手を弾こうとしている。
頭の中がまとまらない。殿下が怪我をしてはいけないから止めるべきなのに言葉が喉につっかえて出てこない。
「大いなる力からリタを奪えられたらいいのにって何度も考えた。
やがてピアスがひとりでに外れ、床に落ちてカツンと音を立てる。
魔法を使ってピアスにかけられた魔法を解いたのかもしれない。
殿下の指がゆっくりと動いてピアスの跡を撫でた。
ピアスが外れると頭の中で声が響く。
次第に頭が熱くなっていく。
ズキズキと痛む。
私の声だ。
私自身の声が響いてくる。
上手く聞き取れないが、叫び声に近い。
何かがおかしい。
堰を切ったように声が押し寄せてくる。
私やお師匠様、それにラジーファーの
頭の中にどっと映像が流れ込んでくる。
この記憶を知っている。
この気持ちを知っている。
含み笑いをする男性の顔。豪華絢爛たる室内に飛び散った血の跡。飲み物が注がれた瞬間に毒に反応して変色していった盃。お師匠様に庇われながら身を隠してやり過ごした襲撃の現場。忘却の魔法で多くの人間の記憶を消したお師匠様の悲痛な表情。
ラジーファーでの記憶。
お師匠様が愛おしそうに彼女を見る横顔。
彼女とお師匠様を会わせようと度々画策していた。彼らは会うたびに幸せそうに話していたから力になりたかった。
私は彼女を幸せにしたかった。優しくて、お姉さんのように私に接してくれていた彼女をあの血生臭い王室に送りたくなかった。
ラジーファーの王太子殿下はいとも簡単に人に手をかける御方で、大切な
お師匠様が悩んでいるのも知っていた。
なぜ、
どうして、
私は自分の罪を忘れてしまっていたのだろうか?
決して忘れてはいけない戒めの記憶だったのに。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。私のせいで、私が余計なことをしなかったらこんなことにならなかったかもしれないのに。
ラジーファーの繁栄の魔法が発動されなかったのは私が邪魔をしたから。
決して平和な国ではなかった。
王太子殿下は残酷な御方だった。
でも、彼が最期に力を使ってお師匠様を助けてくださったのも事実。
残酷だが、そうすることでしか彼はあの場所で生きていけなかったのを後になって思い知った。
いかなる国でも心清き乙女を見つけて繁栄をもたらすことが
ラジーファーに不幸をもたらせたのは私だ。
私が全ての元凶なんだ。
なによりも許されない罪。
私は恩を仇で返した。
2人はお互いを想って気持ちを隠していたのに、私が引き合わせてしまった。
お師匠様を追放に追いやったのは私だ。
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