第103話 一ノ瀬和樹の示すもの
時間は平等に過ぎていく。柊さんに相談してから一週間以上経った。
あの日から、柊さんのアドバイスに従って斎藤の抱えるなにかについて触れるのをやめた。それが功を奏したのかは分からないが、多少は斎藤が悲しみの笑みを浮かべることは減ったように思う。それは触れなければ曖昧な笑みを見せる必要がなくなったからだろう。
ただ、よそよそしさというものは無くならなかった。あれからも微妙な壁を感じることが多い。踏み込まず踏み込ませず、それはまるで出会った最初のころを彷彿とさせた。
それでも、あの時に比べれば豊かに色んな表情を見せてくれてる。だから、なんとなく斎藤は今のままを貫きたいという意志表示のようにも思えた。
柊さんが言っていた通り、斎藤の望みが今の関係を維持したいというものなら、俺はそれに従うべきなのだろうか? 最近の斎藤の態度を振り返ると、告白にも迷いが出てくる。
「……はぁ」
「どうしたの、田中がため息なんて珍しいじゃん」
意外そうに目を丸くして、俺の前の席に座る一ノ瀬。
「なんだよ」
「んー、最近元気なさそうだし、何かあったのかと思ってさ」
少しだけ悩むように顎に人差し指を当てて、言葉を選ぶようにゆっくりと紡ぎだす。一ノ瀬にまで気付かれるとは、よほどおかしかったらしい。
斎藤のプライベートに関わることなので話すか迷ったが、告白すると一ノ瀬には伝えてあったので、それも含めて相談した方がいいかもしれない。
「最近、微妙に斎藤が俺に対してよそよそしいんだ」
「なに、セクハラでもした?」
「違えよ」
まったく、なにを言い出すんだ。流石にそんな嫌がられるようなことはしていない……はず。
「多分だが、斎藤はなにか悩みみたいなのを抱えているんだ。で、それを俺には踏み込ませたくないみたいで壁が微妙にある感じになってる」
「あー、そういうことね。まあ、それなら放っておくしかないでしょ。向こうが触れないでほしいと思っているなら」
「だよなー」
一ノ瀬の返事は分かりきったものだった。現に今は柊さんのアドバイスに従ったことで、ある程度上手くいっている。俺さえ気にしなければ、いつもとなんら変わりはない。
「ただ、今の感じだと告白していいものか分からないんだよ」
「じゃあ、告白はまた別の時にしたらいいんじゃない? 別にホワイトデーに必ずしなきゃいけないわけじゃないんだし」
「そうか、そういう選択もあるのか」
あっけらかんと軽く口にした提案は、予想外のものだった。
「もともと僕が提案したから田中も乗り気になったわけだし、別に今回じゃなくてもいいでしょ」
一ノ瀬の言葉はとても納得できる。もともと一ノ瀬の提案にのって告白をする決意をしたわけだが、付き合うというものが未だにどういうものなのかは分かっていない。それでもあの斎藤のバレンタインの姿を見たから告白しようと思えた。
だが今はその時と状況が異なる。斎藤との間にはあの時にはなかった壁があり、どこかよそよそしい。それならまた元に戻るまで待ってからでも遅くはないのかもしれない。
「そんなに悩んでいるってことは柊さんには相談したんでしょ? 何か言ってた?」
「ああ。今のままを維持するのがいいと言われたよ。何も触れずに今の関係を維持するのがいいって」
「まあ、そうだろうね」
一ノ瀬は、うん、とゆっくり首を縦にふる。
「誰にだって踏み込まれたくない領域っていうのはあるしね。それは田中も分かっているから遠慮しているんでしょ?」
「ああ、そうだよ」
これまでそういう相手が嫌がる部分を避けて、気にしないふりをして接してきたからこそ、俺は斎藤と親しくなることが出来た。
本来だったら今回だって同じように振舞うべきだろう。
だが、どうしても斎藤のあの辛いほほ笑みが脳裏にちらついて仕方がなかった。
「……やっぱり、これまで通り気にしないで接するのがいいんだよな?」
「さあね。それを決めるのは田中でしょ。自分自身で選択しなきゃいけないと思うよ」
いつになく真剣な表情でじっと真っすぐにこちらを見つめてくる。そこにいつもの薄いほほ笑みはない。
ただ、声音だけは優しくどこか語りかけるようだった。
「田中が、これからも友達として斎藤さんを接していくなら、触れないのが正解だと思うよ。それが斎藤さん側の望みでもあるわけだし。でも、今、悩んでいるんでしょ?」
「ああ」
「だったら、もっと悩めばいいさ。どうしてここまで悩むのか、これまではどうして悩まなかったのか。そこまで深く考えなよ」
一ノ瀬の言葉は心の奥底まで響いて消えていく。だが、その余韻だけはいつまでも耳に残る。
「考えて考えて、それから決めるんだ。何が良いのかではなく、田中が何をしたいのか。それを見つけて選択したらいい。選んだ行動が良いかどうかなんて後になってみないと分からないんだから。考えるべきは君がなにをしたいのか、だよ」
真摯に誠実に。まるでなにかヒントでも与えるように。一ノ瀬のセリフの数々が突き刺さっていく。
「決めるのは田中自身だよ。僕に言えるのはこれだけ。安易な考えに逃げて後悔だけはしないで」
「……分かった」
俺が首を縦に振れば、一ノ瀬は、ふっ、といつもの軽い笑みを浮かべて去っていった。その後ろ姿を眺めながら、一ノ瀬の言葉を振り返る。
俺が何をしたいのか。どうしてここまで悩むのか。その答えはまだ得ていない。だから、未だに触れないことが正解だと分かりつつも、それを肯定しきれないのだろう。
相談したところで、行動するの俺自身であり、その行動を選ぶ権利は俺にある。俺はどうしたらいいのだろうか?
悩みに答えは出ることなく、何も得ないままホワイトデーを迎えることになった。
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