3-12
備中国分寺。
総社市を代表する寺院のひとつ。奈良時代に聖武天皇の発願により、仏教の力を借りて天災や
境内には岡山県唯一かつ重要文化財である高さ約三十四mの五重塔がそびえ、吉備路を代表する景観として有名だ。
田園風景の中に建つ五重塔を背景に菜の花、レンゲ、ひまわりなどの写真撮影をしたり、サイクリングスポットとしての人気も高まっている。
午前六時の朝靄の中、五重塔傍のひまわり畑の小道にて。
「にゃあお」
黒猫はひとりの霊魂を連れて歩いていた。
夏の朝の青空の下、開花し始めた黄色い花弁が華やかに小道を彩る。
黒猫が時々振り返りながら、ゆっくりと先導する。その背後を数日前に息を引き取ったばかりの魂が付いて歩く。
凛とした佇まいの美しく若い女性の霊魂だ。天使のような白い羽衣を身にまとっている。
「ふにゃあ」
黒猫の職業は冥界道先案内士。死んだ魂が迷わず成仏して冥土へと旅立てるよう、こうやって途中まで道案内をするのが彼の仕事なのだ。
霊魂が眩しそうに東の曙を臨む。煌めく朝日。生前、彼女が愛した人の生家がその方向の国道180号付近にはあるのだ。名残惜し気な表情を浮かべ、彼女がつぶやく。
『さよなら、ももちゃん。さよなら
「待って」
背後から誰かの声がする。それは聞きなれた声だった。霊魂が振り返る。
「ちょっと待ってよかおるさん。黙って行くなんて、ひどいじゃない」
それは巫女の姿をした桃香だった。
『ええっ! ど、どうして桃ちゃんが?』
「あ、これ。うちでバイトしてる時の制服じゃがぁ。かおるさんもよく知っとるじゃろ。うちの実家が神社だって」
『だから、そういうことじゃなくって……』
「にゃあ」
先に行ってるからねと言いたげな顔をして、黒猫は朝靄の中へと消えた。
――ありがとうね、マホくん。
黒猫の後ろ姿を見届けると、桃香は霊魂に向かって言葉を続けた。
「まほろば堂の店長さんから聞いたんだ。今日がかおるさんの旅立ちの日じゃって」
桃香は既に亡くなった薫の親族や記憶を失くした自分の兄に変わり、ひとり寂しく冥土へ旅立つ義姉を見送りに訪れたのだ。
『だから、そういうことでもなくって。ねえ、ももちゃん。私は幽霊なんだよ、どうして私の姿が見えるの?』
桃香が真顔で答える。
「うち生まれつき霊の姿が見えるの」
『ええっ!』
「そう、私たち吉備津家の一部の人間にはね」
桃香の実家は吉備津神社。岡山県民なら誰もが知る有名神社だ。
吉備津一族は民話『桃太郎』のモデルと言われる
つまり桃香や桃矢を含む吉備津一族は、由緒ある神の使いの家系なのだ。
ちなみに職業霊媒師である忍の、上お得意様でもある。
もうひとつちなみに、桃香のペットの豆柴ポテチは
桃香は現在、実家の手伝いとして巫女のバイトをしている。
今年の十六歳の誕生日を迎えた暁には、吉備津神社の正統な巫女の座を継承される。その上で一族の中で霊感のあるものは、本格的に神の使いの伝道師としての修行を行う。
修行を終えた物は、由緒ある吉備津神社の跡取り神主や巫女の長として、
「ごめんね。かおるさんには今までずっと黙ってて、うちもおにいちゃんも」
桃矢も桃香も吉備津家の秘密を薫には内緒にしていた。
親族以外の人間には霊能力のことを決して伝えてはならない。それが吉備津一族の掟なのだ。
「でね、おにいちゃんには霊感がないの」
霊能力のあるものでないと、吉備津神社の跡取りにはなれないのだと桃香は説明した。そのことに対して、長男である桃矢がコンプレックスを抱いていたということも。
霊魂が「そっか」とつぶやく。
『なるほど、生まれつき家を継げない体質ってそういう意味じゃったんね。だから彼は実家を継げなかった。吉備津神社の跡継ぎは、霊能者である妹のももちゃんの方。それで彼は、普通に勉強をして大学を出て就職した。長年の謎が晴れてすっきりしたわ』
霊魂は『ああ、いい冥土の土産になった』と微笑んだ。
『ももちゃん、見送りにきてくれてありがとうね。店長さんに聞いたっていうことは、もしかして……私のこと、色々と聞いちゃったりした?』
「うん、観ちゃったり聞いちゃったり。かおるさんのへたくそなイジワル女のお芝居の理由もね」
『うわわわ、何だか恥ずかしいなあ……』
顔色の悪い霊魂がぽっと頬を赤らめる。
「店長さん言ってたよ。かおるさんはとても思いやりがあって優しくて心の強い立派な方ですって。自分も見習うべきところが多いって」
霊魂が『やだなあ。店長さん、相変わらず口がお上手なんだから』と照れくさそうに頬を赤らめる。
「それでね、かおるさん」
桃香は思いの丈を義理の姉に伝えた。これを言うために、自分はここに来たのだ。
「でね。店長さん、こうも言ってたの。忘れな草の効力は、死んだら切れちゃうんじゃって。だから一時的な心の麻酔みたいなものなんだって。じゃけえね、もしこの先おにいちゃんが良い人と巡り合わないまま死んで、あの世に行ったら。またかおるさんと恋人同士になれるかもって」
『でも彼、モテるからなあ。ただ悪い女の人に騙されないかが心配で……』
「大丈夫。おにいちゃんにタチの悪い虫や、いけずな鬼嫁が付きそうになったら。うちがちゃんと追っ払ってあげるから。なんてったって、うちは桃太郎の子孫じゃけえ。とりゃあ鬼退治じゃあ。えい悪霊退散ってね」
桃香は勇ましく
『ももちゃんったら……』
「そしておにいちゃんがいつか死んだら。巫女の私が責任も持って、今度は我が家のポテチと一緒に、おにいちゃんをかおるさんの待つ冥土まで送り届けるから」
『ももちゃん……』
「その時まで、おにいちゃんには黙っておく。だってネタバレしたら、せっかくのかおるさんのへたくそなお芝居も、ぜーんぶ台無しになっちゃうもんね」
『もも……ちゃん……』
「でもかおるさんの気持ちは、ちゃんとうちが分かってるから。本当はとってもとっても思いやりがあって、心の優しい人なんじゃって」
じわりと霊魂の瞳に涙が浮かぶ。
霊魂は涙を羽衣の袖でそっと拭うと、桃香に問いただした。
『……ねえ、ももちゃん。ひとりで真相を抱え込んじゃって大丈夫なの。それって重くない?』
「それが、うちのお仕事だから。そういうのもちゃんと受け止めて、あたし一人前の立派な巫女になるから」
霊魂の胸が熱くなる。
「無意識のおにいちゃんだって、きっと分かっている筈。本当のかおるさんが心の綺麗な優しい人なんじゃって。だってそうじゃなかったら、あんなにも必死になって、記憶にない彼女のこと探し歩いたりせん筈じゃもん」
『え、それってどういう事なの?』
桃香は桃矢が深夜に県北まで車を飛ばし、薫を何日も捜し歩いたことを伝えた。
『彼が……桃矢が……私を……記憶にない筈の……私のことを……』
「きっとふたりは運命で結ばれてるんじゃし。記憶があろうがなかろうが、死のうが生きようが。神さまの定めた運命の前では、そんなの関係ないんじゃわ」
霊魂の白い頬に、ぽろぽろと涙が零れる。
『……ももちゃん……ももちゃ……もも…………』
感極まって言葉が続かない。思わず呼び捨てで名前を呼んでしまう。
「やっと呼び捨てで呼んでくれたね」
それはまるで、本当に血を分けた姉妹のように。
「ねえ、かおるさん」
小さな体の巫女の大きな瞳にも、大粒の涙が水蜜桃のようにあふれ出す。
「おねえちゃん……って呼んでもいい?」
天女のような霊魂が、うんうんとうなずく。
『もも……もも……もも…………』
「おねえちゃん……おねえ…………」
風薫る朝の吉備路のひまわり畑で、姉妹はぎゅっと抱き締め合った。
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