3-6
桃矢の脳には事故の影響で記憶障害が残った。
高校卒業前後から、現在に至るまでの記憶の一部が抜け落ちてしまったのだ。
すべての記憶というわけではなく、とりわけ特定の人物の記憶のみ。つまり大学の時に知り合った恋人の薫の存在のみを忘れてしまったのである。
主治医の説明によると「特定の人物の記憶のみが抜け落ちているとなると、何か心因性の要因も含まれるのかもしれません」とのことだった。
息子の後遺症に、最初は困惑した桃矢の両親だった。
しかし元婚約者である薫の腹黒い本性を知った今となっては「まあ、ある意味ちょうど良かったんじゃないかな」と納得する様子だった。
「ももちゃんも。おにいちゃんの前で今後一切あの人の名前を出しちゃだめよ」
妹の桃香は母親から、そう厳しく言い聞かせられた。
桃香も納得したのか、親に言われるがまま薫への連絡は思い留まった。
◇
後日、学校帰りの桃香はひとり、まほろば堂の暖簾を潜った。
「いらっしゃい、桃香ちゃん」と和装メイドの望美が出迎える。
「うん、あの……店長さんは?」
「店長はね、今日は外回りの営業なの」
子供の頃の姿でね、とは付け加えず望美は無難に答えた。
「あの望美さん。うち店長さんにお礼を言いたいんじゃけど。本当にありがとうございましたって」
「店長にお礼……って?」
「え、望美さんが店長さんに教えたんじゃないの?」
「何を?」
「だから、おにいちゃんのことを」
「あたしは何も言ってないわよ。だって約束したじゃない、お兄さんの入院のことは誰にも言わないって」
「ええっ、じゃあ店長さんはなんで?」
桃香は前回まほろば堂へと訪れてから現在に至るまでの経過を、望美に包み隠さず報告した。
「えーっ、お兄さん意識を取り戻したんだ! 良かったじゃない桃香ちゃん。心配したんだよ。良かった、本当に良かった」
望美は興奮して涙ぐんでいる。どうやら嘘は付いていない様子だ。
桃香は望美が兄のことを店主に伝えたのだと、すっかり思い込んでいた。
「じゃあ、なんで店長さんは……うちに魔法のハーブを……」
不思議がりながらも桃香は、望美のことを疑った自分を心の中で恥じた。
桃香は「また改めて店長さんにお礼を言いに来るね」と言い残し、店を後にした。
◇
夕刻。業務を終え、通勤用の私服に着替えた望美は、一日店を留守にしていた真幌に本日の業務報告をした。
「そうですか、桃香さんがお礼に。上手く効果が現れて良かったです」
「あの……ひとつ聞いてもいいですか?」
望美は真幌に問い質した。
「桃香ちゃんに渡したハーブ、それってやっぱり……」
真幌はこくりと頷いた。
やはり黒猫マホの魔術による、冥土の土産の品だったようだ。
「それに店長ご存じだったんですね。桃香ちゃんのお兄さんが、意識不明で入院中の桃矢さんだってことに」
「ええ」と真幌は答えた。
以前、桃香の兄らしき生霊が夜のまほろば堂に出入りしていたのは、真幌の遠回しな説明で望美も知っていた。
故に今更、驚くことでもないのだが。念押しに確認しておきたかったのだ。
「お客様のプライバシーに拘わるデリケートな話題ですので」と真幌が言う。
だから生霊の実名や家族構成や交友関係などを、むやみに他言するのは憚られるのだと真幌は付け加えた。たとえ、それが信頼するスタッフであろうとも。
信頼する。
その言葉に望美の胸がじんとなる。
「あの、店長。ひとつだけ聞いても良いですか」
桃矢は具体的に、冥土の土産の内容をどう契約書に書き綴ったのか。
それを真幌とマホは、どう解釈して実行へと移したのか。
望美は頭の中で言葉を選びながら、こう問い質した。
「そのマホくんの処方した不思議なハーブって、一体何を目的とした薬草だったんですか?」
真幌は静かに答えた。
「忘れな草です」
◇
築五十年を優に超える木造二階建て。
若い女性がひとりで暮らすには不似合いな、狭く薄汚れたおんぼろアパートだ。
以前は家庭の借金の連帯保証人にされた望美だったが、もう完済している。定職もあるし、亡くなった両親の残した実家の家賃収入もある。
だからもう少し綺麗なワンルームマンションにでも引っ越せそうなものの。従来の貧乏性のせいか、ずっとここに住み続けたままだった。
深夜の午前一時。寝付けない望美は、アパートの天井を穴が開くほど見つめていた。
「『寿命は変えられない。ケガは直しても、今度は別の方法で死んでもらうから』か……」
望美は昔、生霊だった頃の自分と死神マホとのやりとりを回想した。
◇
「……ねえ店長さん。いえ、死神くん」
「なんだい、のぞみちゃん」
「願いをひとつだけ叶えてくれるんだよね。じゃあ、奇跡を起こしてよ。あたしの大怪我、きれいさっぱり元通りに治してよ」
「まあ、そんなのお安い御用だけどさ。でもさ、それでいいの?」
「いいに決まってるでしょ。勝手に殺さないでよ。こんなんじゃ惨めすぎて死んでも死にきれないわよ」
「願いを叶えるんだから、のぞみちゃんの魂は頂くよ」
「……え?」
「そういう契約だからね。手に入れた魂は当然、冥土に送りつける。つまり怪我は治すけど今度は別の方法で死んでもらうから」
「…………」
「あとは誰かの寿命の長さを変えることもNG。やろうと思えばできなくはないんだけど、生き物の寿命ってやつは神が定めし運命だからね。それに背くってことは神への反逆罪となって、重ーい刑罰を受けちゃうんだよ。だから誰もやらないのさ。やったからって、ボクらにメリットないし」
◇
望美が回想から我に返る。
「きっとお兄さんの桃矢さんは、自分の命が果てる前に自分の記憶を消したのね」
昔、忍に言われた台詞が脳裏を過ぎる。
【「世の中、知らぬが仏よ」】
忘れな草は、生霊である本人からのリクエスト。
死んでしまってから、愛する恋人への未練で自分が苦しまず成仏できるように。きっと、それが真相だったのだと望美は思った。
「ん、でも……冥土の土産ってひとつだけなのよね?」
いつもの真幌の、契約締結の台詞を思い出す。
【「冥土の土産にひとつだけ、あなたの望みを叶えます」】
意識の回復を望んだのであれば、恋人の記憶を消す願いは叶えられない。
恋人の記憶を消すのを望んだのであれば、意識の回復は叶えられない。
「忘れな草は店長のサービス? それとも意識の回復が店長のサービス?」
それとも、あの薬草にはその両方の効能があるのだろうか。
いくら魔法のハーブとはいえ、そんなご都合主義な薬草が存在するのは不自然だ。
しかも、どちらの場合もマホの尽力なくして実現はありえない。あの規律にうるさいマホが、そんな欲張りな我儘を素直に許すものだろうか。
「うーん…………」
夜のしじまと共に、望美の疑問は益々と深まって行った。
◇
十数日の後憩時間。
望美はまほろば堂の居間で、倉敷帆布の藍染め座布団に正座しスマートフォン画面を見つめていた。
【桃香】『おにいちゃん、もうすぐ退院なんだ。そしたら店長さんにお礼を言いに、お店へ一緒に連れてくるからねっ!』
桃香からのLINEメッセージだ。
最近は学校が終わると、毎日のように兄の桃矢が入院する倉敷中央病院へと見舞いに通い詰めているようだ。クラスメイトとの美観地区周辺カフェめぐりはお休み中なのだとか。
【桃香】『おにいちゃん、おっとこまえだよぉ。へへへ望美さん、惚れるなよっ! ていうかおにいちゃんの方が、望美さんに惚れちゃったりして。美人で優しくて家庭的で、いい奥さんになれそうだってね』
無邪気にはしゃぐ桃香のメッセ。そんな文面を見て望美は切なくなる。
「……桃香ちゃん。お兄さん、もうすぐ別の死因で亡くなってしまうんだよ」
以前、マホに言われた台詞を思い出す。
【ケガは直しても、今度は別の方法で死んでもらうから】
でも、そんなこと言えない。桃香に言える筈がない。
望美は深いため息を吐いた。
◇
数日後の朝。
「ええっ!」
出勤前の望美は、桃香からのLINEメッセを見て驚愕した。
【桃香】『大変なの、望美さん。おにいちゃんが、おにいちゃんが――』
桃矢が突然、入院先の病室から姿を消し行方不明になったとの連絡だった。
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