3-3
薫から正式に桃矢の両親宛に婚約解消したいとの申し出が届いた。
郵送による書面で、文面もまるでお役所仕事のように事務的なものであった。
両親が立て替えていた式場のキャンセル料は、全額自分が負担するとのことである。
父親も母親も、その申し出を受け入れた。
しかし妹の桃香は納得がいかない。兄はまだ死ぬと決まったわけではないのに。
桃香は薫に考え直すよう、LINEで説得の長文メッセを送った。なるべく相手を刺激しないように、自分なりに言葉を選びながら。
しばらく既読スルーされていたのだが、数日後に薫からようやく返信があった。
【薫】『悪いけど、こういう重いの苦手なの。私にだってこの先、幸せになる権利はある筈よ。まだ婚姻届けに判子押す前だったし、問題ないよね?』
「この鬼っ、悪魔っ。とうとう魔女が本性を現したわね。もう許せない!」
遂に桃香の逆鱗に触れた。
再びLINEで、今度は怒りの長文メッセを薫に容赦なく叩きつける。
今度はすぐさま返信が。
【薫】『別に両家で結納金とか交わしてたわけでもないし、誓約を書面で交わしたわけでもない。法的になんの支障もないわよね?』
「じゃけえ、そういう問題じゃないじゃろおが!」
薫の両親と祖父母は既に他界している。親しい親戚もいないそうだ。
だから婚約解消したからといって、薫の親族が困るわけではない。
【薫】『式場のキャンセル料は私が全額支払ったんだし。そういうことでいい?』
「そういう問題じゃ……………………」
それが手切れ金だと薫は言いたいのだろう。
返す言葉を失った桃香は、それ以上メッセを送らなかった。
桃香は薫のLINEアカウントをブロックし、着信拒否の設定もしてスマホの画面を閉じた。
こうして兄の
◇
学校帰りの桃香は再び、まほろば堂をひとり訪れていた。
メイドの望美に、家庭の悩みを打ち明けてから一週間後の事である。
店には望美ひとり。店主は黒猫に身体を乗っ取られ、自称外回りの営業中だ。
「ねえ望美さん、ほんっとひどい人だと思わない? 薄情にも程がありすぎじゃろお」
いつものテーブル席を陣取り白桃タルトを頬張りながら、丸いお盆を胸に抱えた望美に報告する。
「
ついでに見せてと頼んでもいないのに、スマホの画面を望美に見せ付け、LINEでの内容もすべてぶちまけた。
元々、甘えん坊の末っ子で典型的な依存体質の桃香。それが兄と兄の婚約者のふたりを失い、桃香にはもう望美しか頼れる人はいないのだ。
桃香はすっかり望美に心を許していた。けっして他言してはならない、家庭の秘密以外に関しては――。
「ねっ、酷いでしょ。スクショ撮ってインスタで拡散しちゃろうかしら」
――うーん……。
望美は返答に困った。
ここは酷い人だねと同調すべきか。それとも年上の身としては、そんな事を言ってはいけないと諭すべきか。
どちらにせよ薫や桃矢のことをよく知らない自分が、一方の意見を鵜呑みにして安易に口を挟んでよいものだろうか。きっと薫にだって、彼女なりの言い分がある筈だ。
もしかしたら桃矢には、家族も知らない裏の顔があったのかもしれない。
表向きは好青年でも、裏では暴力の絶えないDV彼氏だったのかもしれない。
あるいは異常な性癖があって、変態チックな夜のプレイを桃矢から強要されていたのかもしれない。
だとしたら、ものの見え方は百八十度変わってしまう。
薫はそんな桃矢の黒い面を彼の家族に隠したまま、憎まれ役の悪女を演じ、彼と彼の家族から距離を置こうとしているのかもしれない。
そうすることで、死を目前に控えた桃矢の名誉を、守ろうとしているのかもしれない。
悪女の仮面は、桃矢の両親や妹や、桃矢が万が一に回復した時に彼自身の心にしこりを残さない為の小道具。
だとしたら薫は桃香のこれまでの印象通り、とても善人なのではないのだろうか。
「ねえ、望美さんもひどいと思うじゃろお?」
――こんな時、店長だったらどう答えるだろう……。
人の話を聞くというのは本当に難しい。
真幌の日頃の苦労を、身を持って感じる望美だった。
「ねえ、望美さんってば!」
答えあぐねいている望美の背後から「あれれっ、ももちゃんじゃん?」と、聞きなれたハスキーボイスが。
「あーっ! しのぶさん。なんで?」
「ていうか、ももちゃんこそ。そっか、最近ここって、カフェとしても人気あるもんね」
「うん。店長さんイケメンだし、望美さん優しいし。創作スイーツ最高じゃし」
「へえ。望美、アンタにも可愛い妹分ができて良かったじゃん」
盛り上がるふたりに、望美が問い掛ける。
「忍さんに桃香ちゃん、ふたりはお知り合いだったんですね」
「ていうか知ってるも何も。この子の実家は岡山県民なら誰もが知ってる、きび」
「やめて!」と桃香が大声で忍の言葉を遮る。
びっくりするふたりに向かって桃香は、唇にシーっと指を当て眉をひそめた。
◇
夕方。昼間の営業は、そろそろ店じまいの時刻だ。
ほうきで店頭を履く望美の足元に、傾き始めた初夏の夕日が黒い影を落とす。
「そっか。桃香ちゃんって、いいとこのお嬢様だったんだ。家の仕事をバイトで手伝っているとは聞いてはいたけれど」
影の上を履きながら望美が呟く。
「そういえば桃香ちゃんの苗字って、教えてもらってないよね」
友達と来る時も、名前や桃ちゃんとしか呼ばれていない。
先ほどの様子からすると、もしかしらた友達にも口止めをしているのかもしれない。
そんなに特徴的で有名な苗字なのだろうか。忍は岡山県民なら誰もが知っていると言っていた。
「誰もが知ってるきび~って言えば……きびだんごの会社とかかな。と言うことは
望美の推理は続く。
「ということは、お兄さんの元婚約者のかおるさんって……やっぱり桃香ちゃん兄妹のご実家の、財産目当てだったのかしら」
なのに肝心の桃矢が意識不明の植物状態となり、予てからの狙いである玉の輿が叶わなくなった。
元々、薫の桃矢への愛情はそれほどでもなかった。単に見栄えの良いハイスペック男子で、結婚相手としても条件が良かったから交際していただけだった。
婚姻届けの提出には本人同士の署名が必須。意識不明で回復の見込みがない桃矢がサインをすることは不可能だ。だから玉の輿婚が事実上無期延期の飼い殺しとなった途端、手のひら返しで冷たくなった。
結果、用済みになった彼の元を去って行った。
「確かにそう考えるのが、一番妥当かとは思うけど……」
どうにも腑に落ちない望美だった。
◇
翌日。
気になった望美は、昼間の業務時間の合間に真幌から最近の夜の店の様子を探った。
望美はもう生身の人間なので、以前のように霊の姿は見えない。もしかしたら夜のまほろば堂に、桃香の兄の生霊が出入りしていないだろうかと問いただしたのだ。
真幌は桃香の重い家庭の事情は知らない筈。
プライベートな事なので、彼女の名は出さず曖昧な聞き方をした。
「店長。ここ最近の夜のお客様の中で、結婚前の恋人を残してお亡くなりの予定の、若い生霊の方とかって……」
「ええ、通われていましたよ。ここ半年ぐらいでしょうか。先日、無事に契約を致しましたが」
――やっぱり。
それにしても、ひとつの案件に対して半年とは。何とも気の長い話だ。
オーナーの黒猫マホ曰く、
またマホに少年の姿でネチネチとボヤかれないだろうかと望美は心配になった。
「しっかりとした佇まいの、育ちの良さが伺える立派な方でした。また思いやり深くて心の優しい方でもありました。残される婚約者の方の事はもちろん、ご両親や年の離れた可愛い妹さんのことも、とても心配そうに気に掛けていましたよ」
――やっぱり桃香ちゃんのお兄さんは良い人だった。
人を見る目のある真幌がそういうのだから、きっと間違いはない筈。
桃矢は裏ではDV彼氏の変態エロ男。そんな望美の仮説は外れたようだ。
ともあれ桃香は普通の女の子。この店の夜の実態を知らない。
だから自分としては、すべてを黙っているべきだろう。
密かにそう誓う望美だった。
「望美さん、どなたかに心当たりでも?」
「いえ、別にそういうわけでは。昨夜たまたま、そんなシチュエーションの深夜ドラマを観たので、すこし気になって」
望美の咄嗟の嘘の言い訳に、真幌は「そうですか」と少し寂しげな表情で静かに言った。
――し、しまった!
望美が慌てて口を押える。真幌も若い頃に愛する妻を亡くしているのだ。
――なのにあたしったら、デリカシーのないことを……。
しかし焦って場を取り繕ってしまえば、それこそ更なる泥沼だ。
真幌の悲しい過去はあくまで忍から聞いた話で、彼の口から直接伝えられたわけではない。
望美は自分の思慮の浅さを心底恥じた。
◇
JR山陽本線上りの電車の中。
仕事帰りの望美はドアにもたれ、茜色に暮れなずむ倉敷の街並みをぼんやりと見ていた。
――桃香ちゃんのお兄さん、もうすぐ亡くなってしまうんだ……。
望美が心の中で呟く。
真幌はその生霊とは先日、無事に冥土の土産の契約の締結をしたと言っていた。
――もしかして、真相はこういうことなのかしら。
桃矢は婚約者の薫が自分の事を嫌いになり、自分に愛想をつかして離れていくよう望んだ。残された薫の未来を思いやり、彼女がこの先苦しまないように。亡き自分の存在に引きずられず、新しい恋に出会えるように。
それが冥土の土産の契約内容なのだろうか。
――だとしたら、桃香ちゃんのお兄さんの桃矢さんって、なんて心が綺麗で優しい人なんだろう。そして……。
灯り始めたイルミネーションが電車の窓を彩る。
――なんて儚く切ない、恋の結末なんだろう。
窓に向かって、望美はちいさくため息を吐いた。
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