3-2

 桃香には桃矢とうやという年の離れた兄がいる。


 年齢は二十七歳。地元国立大学の経済学部を卒業し、地元の優良企業である教育教材関係のコーポレーションに営業マンとして就職。大学時代に弓道部で主将を勤めた経験を活かし、社内でも若手社員のリーダー的なポジションにいた。


 イケメンで背が高くて運動神経抜群で頭も良い。おまけに明るく爽やか。更には優しく人当たりのよい性格で、昔から男子からも女子からも人気があった。

 桃香は兄が大好きだった。幼い頃から、いつも自慢の兄だった。


 そんな兄には彼女がいる。名前は楠木くすのきかおる


 兄の桃矢とは同い年で、大学時代に弓道部の仲間として知り合ったそうだ。もう付き合い始めて七年目。現在、倉敷市役所に勤務し住民課で経理を担当している。こちらも地元のエリートコースだ。


 目元涼しげで大人びた顔立ちの、長い黒髪の似合う和風美人。透き通るような白い肌で、モデルのようにすらりとしている。学内のミスコンでも入賞したことがあるのだ。まさに桃矢とは、似合いの美男美女カップルだった。


 弓道の腕前もなかなかのもの。白い道着に藍色の袴姿で弓を弾く薫の、凛とした美しい立ち姿に学園内外のファンも多かったのだ。

 兄も「その姿を見てハートを打ち抜れたんだ」と、いつも笑って言っていた。


 兄同様、性格も良かった。

 幾つになってもちょろちょろと、年の離れた兄に付きまとうブラコンの桃香に対しても、嫌な顔ひとつせず接し可愛がってくれた。薫はひとりっ子だったので兄弟が欲しかったそうなのだ。


 綺麗で大人っぽくて優しくて。そんな薫の事を桃香の方も姉のように慕っていた。

 大好きな兄を取られて、内心ちょっとは嫉妬するものの「かおるさん良い人じゃけえ。かおるさんだったら、おにいちゃんを安心して任せられる」と、ふたりの関係を快く受け入れていた。


 そう、兄があんな事になってしまう迄は――。


 半年前、兄の桃矢は朝の通勤中に交通事故に合った。


 事故の原因は、加害者の前夜の深酒による飲酒運転だったそうだ。

 一命は取り留めたものの、脳挫傷で意識不明の重体。現在も倉敷市内の総合病院で、植物状態のまま入院中だ。


 担当医の説明によると、回復する見込みは殆どないとのことだった。むしろ、このまま脳死になってしまう可能性の方が遥かに高いとの診断結果だ。


 桃香は泣いた。泣きに泣いた。涙が枯れ果てるまで泣き続けた。

 しかしその涙は、兄を喪ってしまうという恐怖や悲しみのせいだけではなかった。


 兄の事故以来、薫の態度は豹変してしまった。


 あんなに優しくて良い人だったのに。兄があんな事になってしまわなければ、この春には倉敷アイビースクエアのガーデンウェディングで、ふたりは挙式をする筈だったのに。


 それが兄はもう助からないかもと知った途端に、まるで手のひらを返したように薫は冷たくなった。最近では、病院にもまったく訪れない。


「ごめんなさい。私こういうのに縛られるのはちょっと。だから――」


 桃矢の意識が回復するまでの間、一度距離を置きたい。それは事実上の別離宣言だった。


 その意思を自分の両親に告げる薫を見て、本性はこんなにも薄情な人だったのかと桃香は心底失望し、やりきれない気持ちになった。今まであれだけ良い人ぶっていたのに。


 あの時の複雑そうに顔を歪める両親の姿を、桃香は生涯忘れないだろう。

 恋愛漫画や映画ではこういう時、何があっても愛する彼の傍を離れないとヒロインが涙を流す感動のシーンになりそうなものの。やはり現実はドラマのようにロマンチックには行かないものだと、多感な年頃の桃香は思った。


 こうして桃香は、大好きな兄を喪う恐怖に先駆け、心から慕っていた人をも失ってしまったのだ。



 夜のまほろば堂。

 今宵も死期を向かえた生霊が出入りする。


 ぼおんと二度鳴る古時計。もう深夜の二時だ。

 雪洞の和風ペンダントライトを挟んで対面席に座る生霊に、店主の真幌がもてなしをする。


 備前焼の器に入ったブラックコーヒーに、宗家源吉兆庵の陸乃宝珠。昼勤の店員メイドも大好物の地元の銘菓だ。

 まだ年若い生霊が、苦い顔でコーヒーを啜る。今年で三十一になる真幌より、少しばかり年下のようだ。


「そうですよね……自分、もうすぐ死んでしまうんですよね。でも店長さんの仰る通り、本当にあの世が存在するというのなら……どうにか新たな旅立ちを受け入れられそうです」


 真幌が優しく頬を緩める。


「あと両親もなのですが、特に妹の事が心配で……」

「大切な妹さんの事は当店のスタッフ共々、責任を持ってアフターサポートによるケアを致しますので」


「それを聞いて安心しました。でもたしか、願いはひとつだけ……なんですよね?」

「大丈夫ですよ。そちらは当店からのサービスです」


「ありがとうございます。あの子は人懐っこくて元気で明るい子なんですけど。子供の頃から甘えん坊で、少し依存症なところもありまして。残された妹の事を、どうかよろしくお願い致します」


 背筋を伸ばして頭を下げる生霊。爽やかさと、育ちの良さが伺える品性ある礼儀正しさ。流石は武道家だ。


「ようやく心の整理が付きました。店長さんには、これまで何度も何度も根気よく沢山の愚痴や悩みや未練を聞いて頂いて、本当に感謝しています」


 自らを神と名乗る生意気な少年から余命宣告を受けて以来。自分は生霊として、もう半年近くもこの店に夜な夜な通い詰めている。


 余命はあと僅か。そろそろカウントダウンだ。冥土の土産の結論を今だ決めかねている優柔不断な自分の為にこれ以上、店主に迷惑は掛けられない。


「だから、自分は……だから……」


 ふと生霊が傍のカウンター席を見る。片隅には、鮮やかで深みのある藍色をした倉敷硝子の一輪挿しが。飾られているのはハナミズキ。艶やかで凛とした白い花だ。


 それはまるで、かつての大学のキャンパスの弓道場で、白い道着に藍色の袴姿で弓を弾く恋人の姿のようだと思った。


 その凛とした美しい立ち姿に、学園内外のファンも多かった。自分もその姿にハートを打ち抜れたのだと、生霊は恋人と出会ったあの頃を懐かしんだ。


「お決まりになられたのですね」

「はい。だから冥土の土産に自分の婚約者フィアンセ――」


 生霊は決断した内容を店主に伝えた。


「承りました」


【契約書 私の魂と引き換えに――】


 生霊は備中和紙の契約書に署名を書き終えた。

 それは余りにも、儚く切ない願いだった。


 真幌が静かに唱える。


「冥土の土産にひとつだけ、あなたの望みを叶えます」

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