音が添えられた日

如月ゆう

音が添えられた日 1話完結

この季節が来ると、毎年思い出す。

リン(鈴)という黒猫の事を。

とても温和で頭のいい彼女は、いつも私の隣に座っていた。

名前を呼ぶと、どこにいても駆け寄ってくる。

とても可愛い子だった。


今から15年ほど前の事。真夏にリンはやって来た。とても暑い8月の昼過ぎに、元飼い主が我が家まで連れてきたのを覚えている。

元々の飼い主は私の友人。

どうも職を失ってしまい、家を追い出される事態になってしまったようで、飼っていた猫3匹の里親を探しているのだと言う。

ロシアンブルーの猫は、元々飼っていた実家に。雑種の長毛種の蘭は、違う人の元に引き取られた。

リンは、蘭と仲が良かったので、蘭の新しい里親に「リンも引き取ってくれないか」と話を持ち掛けた。「いいよ」と言われ、蘭の新しい家にリンを連れていったそうだ。

けれど、蘭は仲良しだったリンをすっかり忘れていて、リンを酷く攻撃してしまった。そのため、一緒に飼うのは無理だという話になり、リンだけ里親が決まらずの状態に。そして、私に連絡をよこした、という事らしい。


私が当初住んでいた家は、ペット不可の家。友人は、来月には家を出なくてはいけない状況だと言う。事もあろうか、このまま里親が見つからなければ保健所で殺処分も考えると言い出す始末。私は「そんな無責任な話はない。殺処分だなんて、口が裂けても言って欲しくない!」と激怒。

最終的に、里親が決まるまでのは私が預かるという話しでOKを出した。


里親探しサイト等でも呼びかけたし、打てる手は全て打ったけど里親は決まらないまま3カ月ほど過ぎた。

その3カ月の間、元々猫好きだった私はリンが可愛くなってしまい、結局私が引き取る事に。そして、ペット可の物件へ移り住もうと決意。

なけなしの貯金をはたいて、東京から千葉へ引っ越した。


リンと一緒に暮らし始めて、生活が一変した。

どうもリンは、仲良しの蘭に酷く攻撃されてからトラウマを抱えていたようで

自宅に友人を呼ぶと、ベッドの裏から奥へ隠れて出て来ない日々が続いていた。

元々は人懐っこい性格の子だけに、とても心配で堪らない。

自宅に来る人には、リンの状況を説明して「人間から無理に近づかないで欲しい。猫がこっちに来ても、無視して居ないものとして扱って欲しい。」とお願いをしてから招く。リハビリをしようと思い、数年間のあいだは人を出来るだけ家に招くことに。何度も何度も繰り返し。徐々にリンが顔を出し、来客者に近づき、匂いを嗅ぎ、距離を近づけ、最終的には人を警戒しないようになるまで3年ほど費やした。

すっかり元通のリンを見て、自己満足かもしれないけれど満足。そんなこんなで、リンは私との生活に慣れていった。


それから何年か経ち、私は結婚する事になった。

旦那とリン、そして私。一緒に暮らすようになり、更に保護された子猫を引き取る事になる。名前は武蔵。

そのころ、リンは年齢的に11歳になっていて、すっかりお婆ちゃんといった感じになっていた。黒猫だけど背中に白髪が混ざり毛並みもバサバサした感じに変化している感じ。

心配なのもあったので、毎日ボディーチェックをするのが日課。

そんなある日、いつものように体中を撫でると、尻尾の付け根の辺りに小さな脂肪腫のようなものを見つけた。最初は人間で言うニキビみたいなものかと、毛を分けてじっくり見るけど、どうも様子が違う。内側から腫れている。

慌てて近所の動物病院で診察してもらう。腫れた箇所を注射で刺し、血液を採取したら顕微鏡で医者が確認する。

「恐らく、悪性腫瘍だと思います。詳しい検査は外部で行いますが、恐らく腫瘍で間違いないと思います。」

医者の言葉にショックを受けた。

いつかは来るその時は、足音なく近づいていた。気づかずにいただけの話し。

人間、余りに大きなショックを受けると、思考能力が停止してしまう。

そして、一気に後悔が押し寄せた。

仕事で忙しいと言い訳をして、一緒にいる時間が少なかった。もっと一緒にいる時間を持てばよかった。もっと一緒に遊んであげればよかったのに。もっと写真も撮ってあげればよかった。グルグルと頭を回って止まらない。

検査結果が出る数日間、そんな事ばかり考えて落ち着かなかった。

そして、検査結果を聞く日がやってきた。


「悪性腫瘍で間違えないですね。進行性の高いものです。尻尾であれば切除して様子を見るか、そのまま尻尾を切らずに猫の生命力に頼るか、決めるのは飼い主さんです。ただ、尻尾を切って延命しても、また再発する可能性はあります。手術をするのであれば、投薬をする影響で腎不全が進みますのでそれ以降の手術は受けられません。要するに、手術は年齢を考えると、これが最初で最後です。

それを考えて、どうするのか決めて下さい。」

その場で私は回答した。

「命が優先で構いません。尻尾は切って下さい。」

どうしても、この子を失いたくなかった。

一緒に生活してきた何年間かが頭を駆け抜けていく。

エゴだと言われても何でもいい。出来るだけ一緒に居たい、ただそれだけだった。


リンを病院に預け、私は自宅に帰って一人で泣いた。

何となく、今まで撮ったリンの写真を見返して「リンは、尻尾で人に触れて距離を測る子なんだよね。ごめんね、リン。それでも一緒に居たい。」そう口から零れた。


2日後、病院にリンを引き取りに行く。

短くなった尻尾は、痛々しく縫合されていて腫れている。


それでも、この子は生きている。


でも、次は無い。

次がいつ来るかも分からない。

残された時間を、出来るだけこの子のために尽くそう。そう心に誓った。


それからの日々、仕事は定時で終わらせて真っ直ぐ家に帰るようにした。

写真も出来るだけ撮った。好きなご飯を出したし、出来るだけ一緒に過ごした。

けれど、恐れていた事は現実になった。

左前脚が徐々に腫れてきた。検討は付いたけれど、病院へ向かう。

「恐らく転移してますね。覚悟して下さい。このまま行くと、前足が腫れて皮膚が裂けます。かさぶたが出来て、自壊すると皮膚がむき出しになるのでワセリンを塗って貰う必要が出ます。腎不全も進んでいるので、出来れば週に何回か来て補液をした方がいいのですが、来れますか?」

覚悟はとうにしていたさ。尻尾を切った時から。

「病院が開いている時間は限られているので、頻繁に通院するのは厳しいです。自宅で補液の処置を私が行うのは可能でしょうか?可能であれば、自分でやります。」

看護師さんに点滴のやり方を教えてもらい、私も実際にやってみる。

出来ると判断したので、点滴に必要な注射針や補液パックを持ち帰った。


そこからは、早かった。

日に日に衰弱してしまい、ベッドも登れなくなった。

次にトイレも行けなくなった。オムツを付けようとしたけど、嫌がるのでペットシーツを部屋一面に敷き詰めて、毎日リンの隣で眠った。

起きると不安になり、リンの心音を確認する。それが日課になった。

そのうち、口の中が化膿してしまい、よだれを垂れ流すようになった。

毎日拭いていたけれど、合間を縫って毛糸で前掛けを作って着けてやった。

口が化膿してから、餌も水も飲まないし食べなくなってしまい、体重が一気に減り始めた。

細めの注射器で流動食と水を流し込んだ。

心が折れる。辛い。


会社をリンの事で度々休むようになってしまい、上司から電話があり怒られてしまった。でも、私にとっては子供と同じ存在。放置して一人のまま死なせたくない一心だった。「明日は出社します」と返して電話を置いた。

翌朝、リンの様子がおかしい事に気づく。旦那に車を出して貰い、会社まで送って貰いたい、リンを一緒に乗せて病院まで連れて行って欲しいと伝えた。

車が会社に到着した時、後部座席のドアを開けて「リン、頑張って欲しいけど、頑張らなくてもいいんだよ。仕事行ってくるからね。」と話かけた。

すると、息も絶え絶えの状態でリンが鳴いた。

「ニ…ャ……ァ」

声を聞いて、どうしても引き止められた気になってしまった。

「ごめん。予定変更。会社はクビになるかもしれないけど、このまま私も行きたい。」と、本能に従う選択をした。

「いいよ。会社には車の中で連絡すればいい。」旦那が言う。

私はそのまま車に乗り込んだ。

会社に電話して事情を説明し、休むと伝えた。

仕事を失う事より、この子の傍にいる事。それが私にとって最善だと信じた。


病院に到着すると、開院時間前にも関わらず裏から入れてくれた。

先生が聴診器をあてる。

「そろそろ逝きますね。補液をするより、抱っこしてあげて下さい。」

今まで鬱積していた全てが噴出した。

号泣しながらリンを抱いた。

「リン、ありがとう。よく頑張ったね。大丈夫だよ。生まれ変わったら、また私の所においで。待ってるよ。」

我が家にやって来た頃、リンは5.5キロも体重があった。

抱き上げた体は2.1キロまで減っていた。

「今、逝きました。」先生が言う。

開いた眼を閉じてあげ、ただ泣くしかなかった。

嗚咽が漏れるほど、人前で泣いたのは生れて初めてだ。

必死で先生に伝えたかった言葉を伝えた。

「先生、有難う御座いました。」

看護師さんも、一緒に泣いていた。


自宅にリンを連れ帰り、葬儀を行う手配をした。

自宅下の駐車場に車を停めて、そこで火葬を行うそうだ。

リンの左前足は、腫れが引いていた。とてもやせ細っていて、別の子に見えるくらいだ。

リンの火葬が終わり、骨壺に骨を収めた。

葬儀屋さんが言う。「この子は薬を使ってないから、骨が綺麗に残りましたね。喉仏や爪まで残るなんて、珍しいですよ。投薬してると骨はこんな綺麗に残らないんです。」

話を聞いても何も頭に入ってこない。骨を見て「これがリン?なの?」と、現実がまだ受け止められなかった。

お願いをして、爪と牙をカプセルに入れて貰った。

骨壺を自宅に持ち帰り、戒名を書こうという話になる。猫の戒名なんて書いた事が無いので分からないけれど、どうも「愛猫娘 〇〇大姉」と書くらしい。

リンは来た時、鈴と書くのだと元飼い主から聞いていた。

けれど、この子は私の子だから。


ー 愛猫娘 鈴音 大姉


私の好きな「音」を添えた。

私の子だという証を。



あの日から、随分と時間が経った。

今でも骨壺は自宅に置いている。

鈴音が着けていた首輪。よだれ臭いまま、洗えずにいる。

そして、自宅にある黒猫の掛け時計に着けてある。

鈴音が居なくなって、家を見回すと沢山の黒猫グッズを集めていた事に気づく。

未だに、黒猫グッズを集めてしまうのも事実。

あの子は、私にとって今でも大切な子に変わりはない。


生き物は、飼うと決めた時から命を最期まで引き受けるという事でもある。

あの時、子猫だった武蔵は今年で10歳を迎える。

鈴音と同じように、心が壊れるような思いをするのかな。

それでも、一緒に過ごす時間には意味があるし、毎日笑ってしまうような事が起こる。そういう幸せを与えてくれる。

限られた時間の中で、出来る限りの事はしてあげたい。

是非、今近くにペットが居るならば、1日に1回は抱きしめてあげて欲しい。

今、生きていて一緒に過ごせる時間を大切にして欲しい。

心からそう思う。

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音が添えられた日 如月ゆう @chiave0221

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