第25話 遭遇

 

 カーミラはコロシアムの前で足を止め、虚ろな瞳で景色を眺めた。

 コロシアムの会場内には入らず、入口付近に立っていたがそこからでも中の熱狂の歓声は響いている。

 むせ返るような死の匂い。観客のエキサイティングな死を求める狂気の叫び。カーミラは数日前にもここに訪れたはずだが、相変わらず何も変わっていない。

 むしろ変わったのは、カーミラのほうだった。

 カーミラは、最早何も掴む事の叶わない自分の左手を見つめる。白い包帯で覆われてはいたが、布は血が滲んで赤黒くなっているのが痛々しい。

 アパタイト硬貨50枚と引き換えにカーミラは、左の指全てを失った。

 これでは武器を取るためにナイフを握ることも、金勘定の為に指をおることも出来ない。


「あの女のせいだ……」


 カーミラは誰にともなくそう言った。

 指の一本一本が切り落とされる感覚を、カーミラはまだ新鮮に思い出すことが出来る。激痛、そして喪失。耐え難い記憶に、カーミラは顔を深く歪めた。

 復讐心が生きる気力を与えている。

 カーミラは踵を返して、コロシアムに隣接している奴隷宿舎へ向かった。

 そこに行くのには理由がある。

 コロシアムで現在、闘技用の奴隷として使役されているある男に用があった。

 名をクロウという彼と会ったのは、全くの偶然だった。数年前出会った時、クロウはどこぞの戦争に巻き込まれたのか半分正気を失っていて、カーミラの事を姉だと勘違いしたようだった。

 それなのにカーミラ自身は、クロウを売りさばく奴隷としか見ておらず、言葉巧みに誘導して最後にはコロシアムの奴隷にまで陥れてしまった。

 悲しいことにクロウの方は未だにカーミラを疑ってはおらず、いつか迎えにきてくれると固く信じている。


「ね、姉さんは、事情があって、ぼ、ぼくをここにいれたんだ……」


 クロウはうわ言のように繰り返しながら、カーミラが得た金と引き換えに奴隷宿舎での日々を過ごしていた。

 そんな自分が売り払った男を再び買い戻すことになるとは、と、カーミラは唇を噛む。

 何故そんなことになったかといえば、淑音を殺す、もしくは捕らえるためにはどうしても必要だからだ。クロウはこれまで長いことコロシアムの試合に出場してきたが、どういう訳か今まで生き残ってきている。

 それは頭の方はだいぶ壊れてしまったものの、闘いのセンスがずば抜けているからにほかならない。

 淑音達を闘技奴隷として売った後も、カーミラはクロウに見張らせて隙あらば殺すように言い含めておいたのである。

 結果は失敗に終わったが。


「あそこで、淑音しとねが死んでさえいてくれていれば……」


 にっくき相手の名前を呼びながら、カーミラは足早に事を済ませることにした。

 奴隷宿舎に行き、赤霧と打ち合わせた通りにアパタイト硬貨45枚でクロウを買い戻す。奴隷の価格は流動的で、まさにギリギリでカーミラは購入まで漕ぎ着けた。悪運はまだカーミラを見放していない。

 後は、残りの金で淑音一行を探すつもりだった。

 カーミラは淑音を買い付けた男が言った言葉を思い出す。『この街を早めに離れるように』と脅しつけてきたところからすれば、この街にまだいるという可能性は十分にあるとカーミラは考えてた。

 その予想は当たっている。


「ね、姉さんやっぱり迎えに来てくれたんだね」


 宿舎から出てきたクロウは、本当に嬉しそうに言った。


「おうおう。我が弟よ。お前を買い戻すのにとても苦労した。まさにあんたを思って、あたしは血の滲むような苦労を重ねたんだ。そんなあたしの為に働いてくれるかい?」


 カーミラは、出来るだけ優しく聞こえるよう猫なで声を出す。


「も、勿論。姉さんの思いにこたえるよ」

「お前に殺すように言っておいた淑音だけど」

「姉さん。ごめん……。隙がなくて、殺し損ねた」

「いや、いいんだ。別にあんたを責めようって訳じゃない。けれど、覚えただろう?」

「あ、ああ……。あの動きは覚えた。今ならまともに対峙してもこ、殺せる、と、思う」


 クロウは深く頷いて、姉の機嫌をとろうとしているようだった。

 クロウの持ち味は、素早い動きと、相手の動きのパターンを完全に把握することにある。それは天性の才能で、それがあったお陰でここまで生き残ることが出来た。

 彼の戦い方は、初見はひたすらに観察に徹することになる。その後動きを見極め、隙をついて生命を刈り取っていく。

 その方法で、これまで何十人もの生命を奪ってきた。


「殺されては困る。しばらくの間、淑音はあたしの商売に使わせてもらうからな」

「じゃ、じゃあ、殺さずに捕まえるよ」


 それから、クロウはカーミラの左手に気がついたようで、目をやおらに見開いた。


「ね、姉さん……。その手は……」


 カーミラは左手の事に触れられたくないのか、背中の方に手を隠してしまう。そして、思わず叫ぶ。


「見るなッ! 見るんじゃねえッ!」


 カーミラにとってそれを見られることは、余程に堪える事らしい。一切の余裕が取り払われ、剥き出しの感情が顕になる。

 けれどクロウはそれ程、気に止めなかった。むしろ、


「淑音にやられたんだね……。姉さん……、ぼくには分かったよ。淑音には姉さんの為に沢山働いてもらう……、それが終わったら、ぼくが姉さんの前で──なぶり殺してあげるよ」


 と、勝手に納得して奥歯を噛み締め、淑音に対する憎しみを燃やしていた。

 それを見てカーミラも、ようやく「ふふふ」と、笑みがこぼれる。


「そうだな。……楽しみにしてるよ。我が弟」


 そうして偽の姉弟は淑音を捕まえるべく、行動を開始した。


 ******


 淑音は赤面した。そして、羞恥心に苛まれる。

 何しろ淑音は現在フリフリのウェイトレス姿で、レオの描く『スイレンちゃん』の為に媚びるようなポージングを取らさせられている。

 スカートは丈が短く、太ももが思いのほか顕になってしまって頼りげない。酒場の男達を接待する為の衣装であるから、際どいものであるのも頷けるのだが。

 こんな大胆な衣装をこれまで着た経験などなかったので、淑音は今にも恥ずかしさで死にそうになっていた。

 何故淑音がこんな服を着ているかというと、メイド服のような物の代用品がこれしか無かったのである。

 チサトには少し大きい衣装で、それで代わりに淑音が着ることになってしまった。


「お姉様……。お似合いです」

「凄い! イメージが沸いてきたよ!」


 チサトとレオは口々に褒めそやしたが、淑音は赤い顔のまま俯いた。衣装を借りるために宿屋の娘にお願いした時も、「ロウド様との時に使うんですか」と変なプレイの一環だと勘違いされてしまう有様で、淑音のプライドはボロボロだ。

 いつの間にか部屋に来ていたロウドが


「ほう……。これはなかなか……」


 と、呟いたので淑音とチサトはロウドを睨みつけた。


「これは芸術なのです。わたし達に構わず、ロウド様は女漁りにでも精を出されてはいかがでしょうか?」


 チサトが本当にそう思っているとは別に、酷く棘のある言い方をするので、流石のロウドも参ってしまっていた。けれど、日頃の行い故に、何とも言い返すことが出来ないらしい。

 その点についての言い訳は、そうそうに諦めて


「宿屋の主人が酒場で働く娘を探していると言っていたが、淑音、やってみる気は無いか?」


 と、ロウドは淑音に尋ねる。


「こんな服で働くなんて……恥ずかしい……」


 と、もじもじしながら淑音は言った。わざとでは無いのだろうが、恥じらう姿がかえっていかがわしく見えてしまって、ロウドは慌てて咳払いした。


「ミリィも昨日から働き始めている。別に、恥ずかしくはないがな……」

「えっ、ミリィも?」

「ああ、ミリィに言わせると、ここの酒場は比較的働きやすいそうだぞ」


 淑音にとっては、ミリィも働いているという事実が胸に刺さったようで、早速今夜から働き始めるということになった。


 ******


 酒場での仕事は客から注文を取り、それを厨房に伝え、出来た品を客に届ける。

 シンプルに言ってしまえば、そういう仕事だ。

 淑音は今までひたすらに剣の道を歩んできた故に、当然バイト経験など皆無だったし、まさか異世界でこんな経験をするなんて想像さえしていなかった。だから、戸惑いと新鮮さの応酬を味わった。

 それでも初めこそ恥ずかしかったが、慣れてくれば案外この衣装も悪くはないのでは、とさえ思えてくる。


「酒。あそこの端に運んで!」


 宿屋の娘──ユラハが勢いよく酒の木製カップを、淑音の目の前にどんと置いた。お陰で、並々と注がれた酒が幾らか撒き散らされたが、ここでは誰もそんなことを気にはしていないらしい。

 お上品な店しか経験のない淑音にとって、これまた新鮮な出来事だ。


「あ、あそこの端……」


 酒場のスペースがあまり広くないせいか、テーブルとテーブルの隙間があまりない。それで、間を抜けていくにはそれなりのコツが必要だった。

 淑音は両手に酒を持ちながら、鍛えたバランス感覚を生かして給仕を開始した。まだ覚束無いものの身のこなしは抜群だ。


「流石、淑音だねえ」


 ミリィに褒められて、淑音は何だか嬉しくなる。

 さて、夜になり、店の一番の稼ぎ時がやってきた。

 暗くなってからまだ僅かしか経っていないが、お客は上々、席はほぼほぼ埋め尽くされている。

 あちらこちらから注文の声があがるので、淑音は休む間もなく店内を駆け回った。

 メニューボードも壁に申し訳程度に貼り付けられた簡易なものしかなく、電子入力出来る機器も当然ない。

 さらに聞いたことも無いメニューなので、覚えるのも一苦労する。

 淑音は目を回しかけながら、脳をフル回転させた。

 そちらに気を取られていたので、客の手が淑音のお尻の方に伸びてきているに危うく気が付かないところだった。淑音は寸前で腰を引いて、それをかわした。

 間一髪。少しでも反応が遅れていたらセクハラの餌食になるところだった。

 痴漢を裁く法もここにはないだろう。自分の身は自分で守らなければならないのだ。

 けれど両方の手は料理で塞がっているので、手は動かせない。淑音はうぐぐと歯噛みしながら、客の方に目を向けた。


「お姉ちゃん新人? いやあ、そこに可愛いお尻があったからつい。そういうサービスしてないの?」


 軽薄そうな優男だった。淑音は目線だけで殺せるのでは無いかというくらいに睨みつけたが、男は気にした素振りも見せずにヘラヘラしている。


「そういうサービスはしていません」

「あ、そう。きみ可愛いね」


 男はそう言いながら、酒のはいったカップを一気に煽った。喉を鳴らして中の液体を飲みきり、机に乱暴に叩きつける。

 いい飲みっぷりに周りの客からの歓声が沸いた。


「注文がないならもう行きます」


 淑音は心底冷えきった声で、背中を向ける。勿論男が何かしようものなら、直ぐにかわせるように警戒しながら。


「まあ、待ってくれ。少しお話ししないか、お兄さんひとりで寂しいんだよ」


 男が言った。男の言う通り、テーブルはひとりきりで連れの様子もない。

 だからなんだ、という風に淑音は迷惑そうに顔を向けた。


「仕事中なので」


 淑音がすげなく去ろうとしたところで、別の声が引き止めた。意外な事にそれはユラハで、


「お客様が望まれるなら、一緒に過ごしてやりな! 今のあんた、そこまで役に立つわけじゃないんだから」


 と、言われてしまった。

 戦力外通知に多少のショックを受けるも、そう言われてしまえば逆らう訳にもいかない。

 しかし仕事は給仕だけではなかったのか、こんな風に客の相手までしなければならないとは話が違うと思った。けれど、ここには契約書も、労働基準法も存在しない。

 むしろ、本来奴隷である淑音からすれば相当に待遇はいい。

 淑音は不承不承男の前の席に座って、不満そうな顔を向ける。


「いやあ、本当に可愛いなあ。故郷にいる娘の事を思い出すよ」

「あなたは自分の娘のお尻を触る変態野郎なんですか。最低ですね」

「いやいや! まさか!」


 男の物言いに淑音は義父直哉の事を思い出して、腹が立ってきた。


「娘にそんなやましい気持ちは持たない。ただの言葉のあやだよ。すまんな」


 意外にも男は素直に謝ってきた。


「本当に故郷が恋しくなったんだ。少しの間、ここにいてくれないか? 何もしないから。ホント、何もしないから」

「……なんで、二回言うんですか。逆に怪しい」


 淑音は半眼になりながら、男の腰に着いている剣に目を落とした。


「あなた剣士ですか?」

「あ、ああ、そうだ。この剣はどっかの誰かから貰ったもんで、ナマクラだろうがな」


 顎で、その剣を指し示しながら男は言った。

 相手の得物に最初に興味を示すのは、淑音の癖のようなものだ。相手がどんな武器を使うのかを確認し、次に相手の力量を無意識のうちに測ろうとする。

 そうしておけば、いざ何か起きた時でも対処出来るからだ。蒼月家の教えは、身体に染み付いている。

 淑音は男の一瞥して、不審な所はないかと思考した。身のこなしは軽いが、大した腕ではないだろうと結論する。


「君はここ出身か?」

「いいえ、遠い所から」

「奇遇だな。おれもとても遠いところから来た」

「そうですか」

「しかしな、家族を置いてくる羽目になってしまった。娘たちはまだ小さい。だから、早く帰りたい」


 男は遠い目をしていたので、本当にそう思っているということが淑音には分かった。


「戻らないのですか?」

「いや、戻れない。戻り方が分からない」


 男の言い方に妙な違和感を感じて、淑音は尋ねることにした。


「あなた、何処から来たのですか」


 男は頭を振りながら、「君に分かるかな」と呟きながら、


「日本、という所だ」


 と言った。

 一瞬淑音は言葉を失い、そして直ぐに立ち上がった。あまりにも勢いよく立ち上がったものだから、バンと大きな音が鳴って、周辺の客たちの目線が集まる。

 再び淑音は注文を集めてしまったことを後悔しながら、席に座るまで数秒。

 今度は声を潜めて、淑音は男に呼びかける。


「わ、わたしもその日本から来たのです」

「な、何!?」


 今度は男の方が立ち上がり、バンと大きな音がなって同じように注目を集めた。


「あんた達いい加減にしなよ」


 近くに寄ってきたミリィから軽く注意を受けて、ようやくふたりは冷静さを取り戻した。

 客たちが喧騒を取り戻し、それぞれの会話を再開したあたりで、淑音達も会話を再開した。


「じゃあ、君も『迷い人』というわけか」

「あなたもそうなのですね」

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