第22話 涙
夜。物置の様な部屋に3人が眠っている。
男女を一緒くたに部屋に詰め込まれるのは、奴隷宿舎からの事でいい加減慣れてきたが、奴隷宿舎に比べたらベッドも格段にマシだ。文句を言う気も起きない。
チサトは護衛としてロウドへ部屋の隣に部屋を取ってあるということで、そちらに帰って行った。
そうなると部屋には、淑音、ミリィ、レオの3人だ。やはりひとり足りなかった。
ミツキの事を思い出す。今頃何をしているのだろうか。嫌でも色々なことを考えてしまう。
──なんで、わたしがこんなことで眠れない夜を過ごさなければいけないの!?
もやもやは、次第に怒りに変わってきた。
考えてみれば力尽きて気を失う事はあったが、こちらに来てからあまりきちんと眠れた夜がない。
このままではいずれ身体を壊してしまうかもしれない。
──はやく、寝よう! わたしには何の関係もないんだから。
ここまで苛立つのは、義父直哉の事を思い出すからだろうか。欲望に忠実な人を見ると嫌悪とまではいかないが、目を逸らしたい気持ちになる。
ミツキが戻ってきたら、一言文句でも言ってやろうか、そんな気持ちにまでなってしまう。
結局、ミツキが部屋に戻ってきたのは夜も大分更けた頃だった。
淑音の目は爛々としていたが、こっそり部屋に入ってきたミツキに見つからないように寝たフリをした。
「起きてるだろ?」
ミツキに声をかけられて、淑音は心臓が止まってしまうのでないかと思った。
目を開けると、にやにやしながらミツキが淑音のベッドの端に両腕をついている。
「何してるの?」
流石に咎めるように淑音は言った。
「なあ、眠れないならちょっとだけ外に行かないか?」
けれど、ミツキは気にした様子もなく、顎で部屋の入口を指して淑音を誘う。これにはげんなりした。
それでも、どうせ眠れないことは確かだったので、文句のひとつでも言ってやろうと言う気持ちで、淑音は寝床を抜け出すことにした。
******
月の明かりのせいで今日も夜が明るい。
こんな夜は、昨日のコロシアム最後の夜を思い出してしまう。
ライジュウと最後にまともに話した夜だ。彼の事は、彼の最後はまだ鮮明に覚えている。彼がいなければ、淑音達が今ここにいることは無い。
宿を抜けてすぐの住人用の井戸の近くまで歩いて行った。文字通りの井戸端会議用に、ベンチが備え付けれていて、そこにふたりで腰をおろす。
「どこにいってたの?」
淑音は事情を知らない振りをしながら、ミツキをほんの少しでも懲らしめてやろうと言う気持ちで尋ねた。
「ロウド様の所に……な」
ミツキは動揺したり、誤魔化しもしなかった。
「何してたの?」
「それを聞くかよ……」
淑音が再度追求するので、それにはミツキは流石に困った顔を向けた。
「何って……まあ、わたしも久しぶりにお酒を飲まして貰っていい気分だったからな。ロウド様に何かお礼と思って……」
「へえ……、大人だね」
「……なんか怒ってるか?」
「別に」
「怒ってるじゃねえか。まあ、何に怒っているかは知らねえが……」
ミツキは言いかけて、言葉を止めた。
淑音は気になってミツキの方を見る。夜の暗闇でよく見えなかったが、ミツキの頬に涙がつたっているのが分かった。
淑音は動揺した。そんなに意地悪な言い方をしてしまっただろうかと、申し訳ない気持ちになる。
「ミツキ……どうしたの? ロウド様に何か酷いことされたの?」
「いや、そうじゃない……。そうじゃないんだ」
ミツキは首を振った。
「ただ、出来なかった……。出来なかったんだよ」
ミツキは今度は視線を地面に向けながら言った。淑音にはどういうことか、まるで分からない。
ただミツキの手を握る事しか出来なかった。
「コロシアムでのこと……。まだ、淑音にも話してなかった事がある……。聞いてくれるか」
「うん。聞くよ」
淑音は何だかミツキが可哀想になって、うんうんと頷いた。
それでも、ミツキはどう話していいか、分からないように空を仰ぎみては考えているようだった。
しばらく経って、ミツキはようやく決心がついたように語り始めた。
コロシアムで、淑音が来る以前から何があったかを。
「ライジュウの事だ」
思わぬ人物の名前が出てきた。生きることを諦めていたようなあの男の顔が、思い出される。
あの男とミツキにどんな関係があるというのだろう。淑音はミツキの言葉を待った。
「わたしはあいつに『好きだ』と言われた」
淑音はミツキに気づかれないように息を飲んだ。
ミツキは続ける。
「あいつは何を考えているか分からない男だろ? どうして奴隷にまで身を窶したのか、誰も知らなかった。けれども、そんな男にわたしは『好きだ』と言われたんだ。……馬鹿馬鹿しい。こんな場所で何を言っているんだとわたしは思った。だって、明日死ぬかもしれない身だ。自分のことを考える以外に何を考える余裕がある。そうだろ」
確かにそうだ。そんな余裕はない。コロシアムに居た数日だけで、その気持ちは淑音にも痛いほど分かる。
「あいつは本気だとも言った。自分の生命はどうなっても構わないが、お前の為になら生きてみてもいいってそう言ったんだ。そう言って、あいつは言葉通り、幾つもの試合を生き残っていった。試合前によく言ってたよ。『明日もお前の顔が見たいから、俺は生き残る』って」
ミツキは表情を顰めた。
「けれど、わたしはあいつを受け入れなかった。わたしには余裕がなかった。生きるために必死だった。もしあいつの優しさに甘えたら、たちまちわたしは弱くなって殺される予感があった。……それでもあいつは諦めず、ずっとわたしを思って声をかけてくれた。今思えば、わたしが生き残る事が出来ていたのも、あいつの声をまた聞きたいという思いが、心のどこかにあったからかもしれない」
ミツキは震える声を整えようとするように、溜息を吐いた。
「だから昨日あいつが身を呈してわたし達を守ってくれた時……わたしは気づいてしまったんだ。本当はとっくにあいつを愛してしまったのかもしれないって……」
「それは──」
それは淑音にとっても衝撃的な事だった。どうしてライジュウは身を呈してまでわたし達を守ってくれたのかという疑問の答えが、ようやく分かったからだ。
淑音は『愛する』ということがどういうことかよくわからない。母と義父は表立って喧嘩することはなかったが、その関係は歪んでいた。
だから、分からないのだが、自分の生命を誰かのために使ってよいと思えるなら、それは本当の気持ちに他ならないのではないか。
それを実践してみせたライジュウは、本当にミツキのことを愛していたのではないか。
ミツキの未来を繋ぐために、自分の生命を差し出したのだ。
誰だって少なからず、自分の生命は大切だ。とくに瞬間瞬間に命が刈り取られていくあの場所で、綺麗な死に様を飾ることすら出来ないあの場所で、誰かを庇うという事の重さはどれほどなのだろう。
だからこそ、そこに真実がある。
ライジュウは。
彼女を愛し。
生きていて欲しいと。
心から願ったのだ。
そして──。
ミツキも、本当はわかっていだ。
彼を愛していたのだ。
「でも、そんなの認められない!」
精一杯否定するように、ミツキの声はもう泣いていた。子供のように首を振る。
「わたしはあいつに何も何も出来なかった! 受け入れる事もしなかった! だから……認める事が出来ない……。わたしがあいつを愛していたなんて! 」
「だから」とミツキは言葉を切り、深呼吸する。
「……ロウドとそういう関係になれば、きっとそんなことないって、あいつを愛してしまっていた事実を否定できるんだと、そう思った……」
とてもか細い声だった。
淑音は追い詰められているミツキの手を握りながら、自分の身体が震えていることに気がついた。
どんな言葉をかけたらいいか分からない。怖い気持ちでいっぱいだった。
「でも、いざそうしようとしたら、あいつの顔がチラついた……。出来なかったんだ。……それで、ロウドを置いて戻ってきた……」
そこまで言って、ミツキは今度はポロポロと涙を流した。
愛する人に気づいて、でも、その人がもう世界のどこにも居ないことに気づいた時どんな思いがするだろうと思った。
気づいたところで、もう、何もかもが遅すぎるのだ。取り返しがつかない気持ちになる。
だから、それを否定しようとさえするミツキの気持ちが分かって、淑音は胸が痛くなった。
祖父の事を思い出す。祖父は淑音を愛してくれたし、淑音もそうだった。
祖父の手がもう淑音の手を握り返さなくなった時のあの寂しさを、あの哀しみを、今も言葉になんて出来ない。
だから、どんな言葉をかけてあげればいいかも分からない。
怖かった。
──わたしは子供だ。ただの……。何も知らない……。
無力さに押しつぶされそうになる。
ミツキの拳の中に、鎖の様なものが握られていた。それはアクセサリーのようで、きっとミツキにとって大切なものなのだろう事が分かった。
淑音の視線が注がれているのに気づいて、ミツキは握っていた手を開いてみせた。
それはペンダントだった。鉄を削って作った不格好なペンダント。
「あいつから──ライジュウから貰った……。ほら、奴隷宿舎じゃろくな道具もないから……。有り合わせの材料で作ったらしい。こんなものをわたしは大切にとっておいていたのに……。……本当に馬鹿だ。こんなわたしの為に死んでしまったんだから、あいつも本当に馬鹿だ」
そう言ってミツキは今度こそ本当に泣いてしまった。淑音はどうすることも出来ず、ただずっと彼女の手を握っていた。
「……ミツキ……。そうやって悩めるのも、ライジュウのお陰なんだよ。死んじゃったら、悩むことも出来ない……。だからミツキには悩んでいても、生きてて欲しいよ……」
淑音も泣いていた。
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