第55話 終結
その瞬間はまるで時間の流れる速度が変わったように、ゆっくりと感じられた。
靴の裏側から屋根の感触が消え、笑顔のアマンダと共に体が傾ぎ、標章へと真っ逆さまに引き寄せられてゆく。
(わたし、死んじゃうんだ)
そう思った瞬間、脳裏にこれまでフィンが歩んできた軌跡が蘇った。
記憶の中のフィンはとても小さく、孤児院でメアリーやサリアと一緒に笑い合っていた。ディックもロイもお兄さんぶって、いつもフィンを助けてくれた。
本当の母親のように姉のように、やさしかったクラリス。誰にも内緒だと言って膝に甘えさせてくれた。いなくなってしまった時は悲しかったけれど、
(ジューンさん…)
逞しくて優しかったジューン。フィンの憧れの人。薬師になるのは諦めたけれど、やっぱり弟子にはなりたかった。家族のようにあの薬屋で暮らしたかった。
それと最後にちょっとだけ顔が見れたギルとイド。きっとフィンを助けに来てくれた。笑顔の方がカッコいいのに、最後に見えたのは心配そうな顔で残念だった。
(わたし死んじゃうけど、けっこう頑張ったんだよ! 約束通り負けなかったよ!)
そう言えばリットも来てくれた。別れる時はあんなに大怪我だったのに、ちゃんと元気だった。なんだかギルと仲がよさそうだった。
(みんな…みんな…)
もっと一緒にいたかった。
*
「空を統べる自由の民よ、オレの頼みを聞き入れよ!」
「っ!」
リットの声が聞こえたかと思うと、耳元でピュゥッと風の音がし、突然ガクンと落下が止まった。
「な…に⁈ どういうことなの⁈」
「っ?」
隣で騒ぎ出したアマンダの声を聞きつつ、フィンは固く閉じていた瞼をそうっと開ける。すると激しい向かい風の中、鼻先には夕焼け色の空を反射する標章の鋭い先端が待ち構えていた。
「ひゃあぁっ!」
「フィン、馬鹿! 動くんじゃねぇ…っ」
苦しそうなリットの声にハッと我に返ったフィンは、首を巡らせて彼の姿を探す。…が見つからない。どうやら角度的に見えない位置にいるらしい。
バクバクと早鐘を打つ鼓動を落ち着かせるため、懸命に深呼吸を繰り返すと少しだけ余裕が生まれ、状況を把握することができた。
今フィンとアマンダは標章のギリギリ上で、強風に持ち上げられた状態で浮んでいる。あと少し止まるのが遅ければ、フィンの頭は串刺しになっていた。
ホッと安堵の息を吐いたが、宙づりの状態では何もできない。どうしたらいいのかと困惑していると、今度はギルの声が辺りに響いた。
「魔法を使う! 悪いが加減できない故、どこでもいいから掴まってくれ!」
「え~~~? オレ掴まれねーよぅ」
騎士の姿をした人たちは、慌てて近くにある柱や邸の壁に掴まったが、今まさに魔法を使っているリットは動けないらしく泣き言を零した。それを聞いたイドが薄目を開けたフィンの視界の隅を走り抜け、片腕でリットを抱えて柵に掴まったのが見えた。
「ギルぅ! もう限界だぁ!」
「よし!あとは引き受けた!」
リットの悲鳴と重なるように、ギルが以前やった時と同じく左手を翳す。自分の瞳と同じ空色の石が嵌められた指輪を見つめながら、彼は呪文を唱えだした。
「清浄なる水よ! 我が力を糧とする精霊たちよ! 我が願いを叶えるべくここに集い…今すぐ力を貸してくれぇぇぇっ‼」
最後の雄叫びと同時に轟音が鳴り響き、地面が四方にひび割れ、隙間から大量の水が噴き出す。あまりの勢いに息ができずにフィンはムッと唇を閉じ、下からの奔流に必死に耐えた。
激流に飲まれて上へと流される。空気が漏れないように両手で口を押えて丸まるフィンに抗う術はなく、やがて水流の先端へポーンと放り出された。
「ひぃ⁈」
邸の屋根など比べものにならないほどの遥か上空、橙色の空は遥か彼方まで続き、森の向こうに隠れようとしている太陽は、完熟したポムルみたいに真っ赤だ。
(…って! わたしこのままじゃ、落ち…っ!)
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「フィィィン!」
ギルの声がフィンを呼ぶ。目を開ければギルが手を伸ばしてフィンを追って落下していた。
「ギル!」
「手を伸ばせ、フィン! 俺の手に掴まるんだ!」
言われるがままに手を伸ばし、指先が触れては離れるを繰り返す。
やがてもう少しで指が届くという時、それは起きた。
「そうはさせないわ! あなたはわたくしと一緒に逝くのよ!」
「ああああっ!」
フィンよりも下で同じく落下していたアマンダが、最後の力を振り絞りフィンの髪をわしッと掴んだ。
「さあ共に地の底へ参りましょう? フィン」
ただ落下するだけのフィンにはアマンダの手を振り払うことはできず、ギルに手を伸ばしたまま垂直に地上へと向かう。
しかしそれをよしとしないギルは決して諦めず、細く小さなフィンの手を———
—————————掴まえた!
力のままに引き寄せてフィンを腕の中に掻き抱くと、ギルは顕わになったフィンの耳に唇を押し当て、「すまない」と囁いた。
ザクッ…
謝罪の意味は訊ねる前にわかった。手にしていた剣を横薙ぎにしたギルは、流れるような動きで邸の外壁に剣を突き立てた。
「あ」
そのまま地上へ吸い込まれたのは、銀糸を握り締めたアマンダだけ。彼女は網膜に抱き合う二人を映しながら、チャペルの屋根へと落ちていった。
「見るな」
「っ!」
屋根を突き破り轟音と共に地上へ戻ったアマンダ。ギルはその惨状を見せないように体を反転させ、フィンの視界を遮った。
*
「後味の悪い終結になってしまったが、とにかくこれですべてが終わった。すまないがダヴィデ、後処理を任せてもいいか?」
「もちろんであります!」
アマンダに遅れて地上に漸く下ろされたフィンは、どこもかしこも水浸しの光景に、あんぐりと口を開ける。
「…前に言っただろ? 俺は魔力の調節が苦手なんだ」
濡れて張り付く前髪を掻き上げながら、ギルはバツが悪そうにそう告げた。
「これでもまだ被害は少ない方なんですよ。以前に海の近くで…」
「わ―――っ! イド、余計なことを教えるんじゃない!」
ぐったりしたリットを肩に担ぎ上げたまま、ギルの過去をばらそうとするイド。彼らの遠慮のない主従関係はよくわからないけれど、少し懐かしい気持ちになった。
「お~い~、オレを無視してふざけ合うのやめてくんない?」
フィンの位置からはぐっしょりと濡れたズボンのお尻しか見えないため、フィンはイドの背後に回り込んで、リットの顔を見上げた。
「よ。生きて会えたな」
「うん。助けに来てくれてありがとう。リット」
「ま~…うん、お前は
「ついで?」
「そう、つ・い・で」
意味深なリットの言葉に首を傾げていると、ギルが拗ねた表情でフィンの腕を引いた。
「なんで先にリットに礼を言うんだよ」
「え?」
「俺、すげー頑張っただろう?」
「ギル様、リットの口調がうつってますよ」
顔を近づけて文句を言うギル。ムスッとへの字に折れ曲がった口元がちょっとおかしくて、フィンはクスリと笑った。
「なんだよ?」
「だって、ギルおかしい」
「おかしくない!」
くすくすと声をたてて笑うと、ギルがガシガシと無遠慮にフィンの頭を撫でる。ゴツゴツした手のひらで撫でられると痛いため、フィンはイドの陰に逃げ込んだ。
すると、
「フィ…ン」
聞いたことのない男性の声に名前を呼ばれ、フィンはイドにしがみ付いたまま振り返る。そこには身形の良いあきらかに貴族だとわかる中年の男女が立っていた。
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