第42話  秘するべき力

「お前、魔法が使えたのかよ」


 痛む額を擦っていると、しゃがみこんで目線を合わせたリットが、やや声のトーンを落としておかしなことを訊いてきた。


「魔法?」


 恨みがましい目で睨みながら訊き返すと、彼はこくりと頷いた後、さっき使っただろうと言って、自分の背中を親指で指し示した。


「あれ?」


 向けられた背中を見ると、先ほどまで痣だらけだったそこはかなり色が薄くなっていて、ミミズ腫れも落ち着き、血が滲んでいたところは細い線状の瘡蓋になっている。

 しかも見ている間にも徐々に痣は薄くなり、最後には背中一面綺麗な肌色になった。


「治っ…た?」

「治った? じゃねーよ! お前、事の重要さをわかってねーだろ?」


 驚く光景に呆然とするフィンを、リットは呆れたように嘆息し、そのまま床に腰を下ろした。


「お前さ、オレの左脚が悪いこと、気が付いてるだろ?」

「え、う、うん…」


 急速に怪我が治った事実についていけず未だ混乱状態のフィンに、リットはなぜか自分の身の上話をし出した。


「これね、昔ガキの頃にハハオヤって女にやられたんだわ。何かにつけちゃぁヒステリックになって、すぐに手をあげてくんの。あの頃は毎日怖くて大変だったわ」


 ”家の中だけが世界”のまだ幼い子供は、母親の暴力から逃れる術がなかったという。いつも彼女の顔色を窺い、機嫌を損ねないようにおとなしく小さくなって過ごしていたらしい。


「お父さんは助けてくれなかったの?」


 フィンが町で見かけた父子は仲良しで、手をつないでいたり肩車をしてもらったりしていた。だから母親に苛めらるのを父親は庇ってくれなかったのかと疑問に思った。


「しねーしねー。全然よ。だってオレ、チチオヤの本当の子供じゃなかったらしいし? チチオヤにはほかに子供がいて、そっちを可愛がるのに忙しかったみてー。

 んでそんなある日、いつも通り癇癪を起こしたハハオヤがオレの腕を掴んでバルコニーに出てさ、柵の向こうにこう…”ポイ”って」

「っ!」

「今でも忘れらんねーの。罪悪感の欠片もない、あの冷めた目…」


 清々しいまでに晴れた青空と、落ちてゆく自分を見下ろす夜の湖のような光のない青の瞳。全身を襲う衝撃と同時に意識を失い、気が付いた時には左脚の自由は失われていた。

 しかしその後も母親による暴力は続いた。父親が亡くなって家を出て行かなくてはならなくなり、母親と二人の生活になると、それは更に酷くなった。


「ハハオヤが昼間働きに出ている間、使用人のじーさんがオレの面倒を見てくれていたんだけど、毎日通ってくるたびにオレの怪我が増えることを不憫がってね。ある時オレと同じ黒髪の浮浪児の死体を持ってきて、これを身代わりにするから逃げろって言ったんだ」


 老人の知人だと言う男に託されたけれど、脚が悪いお荷物なリットは結局すぐに見捨てられた。

 暴力に怯えなくてもよくなったが、同時に雨風を凌げる住処も失った。何も持たない非力な子供は路地裏でゴミを漁り、露店から物を盗み、橋桁の下で筵に包まり眠った。―――そんな浮浪児としての生活を三年ほどした頃、リットは貴族の馬車から荷物をかすめ取ろうとして御者に捕まり、そして…その主であるジョルジュに仕えることになった。


「監視役なのに脚が悪いってどうよって思わねー? 普通に考えたらさ、走って逃げたら追い掛けらんねーじゃん? でもオレには一つ特技があんのよ」


 御者に捕まった時、抵抗する際に放った風魔法。それはたった一人でゴミ溜めに生きるリットが、自身を守るために覚醒させた能力。

 その力で御者の手の甲を裂いた場面を見ていたジョルジュは、裏事業の人材としてリットを連れ帰り、魔法が使える雇人たちに手ほどきするように言いつけた。


「その人らがまあ~容赦ないんだ。口で説明しないで直接術をぶつけてくんの。必死に力の使い方を盗み見て伸ばさないと、本気で殺されちゃいそうでさ。おかげでそれなりに使えるようになったんだけど」


 俄かでも師弟関係が出来上がっているためか、手荒に扱われても反撃できず、生傷が絶えないのだそうだ。


「すごい…よく頑張ったねっ」


 リットの生い立ちに同調し、ぼたぼたと涙が止まらないフィンは、まだ裸のままの彼の腕にしがみ付き、彼の強さを称賛した。


「いや、ちょっと待って。遠回しになったけど、オレは別に褒められたくて話したんじゃねーの。魔力の話なんだけど、わかる?」

「?」

「いやいや、首傾げてんじゃねーよ。オレの怪我を治した力の話に繋がってんだけど」

「あ? え、ああっ!」


 すっかり忘れていた。

 改めて自分の手のひらをまじまじと眺め、にぎにぎと握っては開いてみる。リットの怪我がみるみるうちに治ったのは事実だけど、それをしたのが自分だとは思えない。


「薬がすっごく効く体質だったのかも…?」

「アホか。限度があるわ」

「使った薬草にすっごい薬効があったとか?」

「ご主人様に渡した薬の効力は、ジューンとかいうばーさんが作ったヤツより落ちるって言ってたよなぁ」

「……じゃあ、なに?」

「だから! 魔法だって言ってるじゃーか!」

 

 声を荒げたリットが、フィンの両頬を抓んで捻りあげた。


「いひゃいいひゃい! はなひへ!」

「いいからそのままよく聞け。いつかここから出てばーさんの元に帰りたかったら、魔法のことはバレないようにしろ」


 床に座り込んだまま、作業台の陰で彼は声を潜めて忠告する。決してジョルジュに…否、この邸の誰にも知られてはいけないと。


「もし知られたらお前は一生飼い殺しだ。契約で魔力を縛り、今以上に閉じ込められ、もっと厳しい監視が付いて、言われるがままに薬を作らされる上、怪我や病気を癒し続けさせられる」

「薬師になるってこと?」


 やっと放してもらい痛む頬を押さえて訊ねる。

 ジューンの弟子になり、彼女の元で学んでなりたかった薬師。けれどここにいても結果的に薬師になれるのなら、それほど悲観することもないのでは? と思ったフィンの考えを、リットはスパッと切り捨てた。


「違う。奴隷にされるんだ」


 実際に経験した者の言葉は重く、フィンの心に圧し掛かった。





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