「ぎいいいいいいいっ！！」

自分の腹の下をすり抜けてみせたイティラに、ドムグは激しく苛立った。とても鹿とは思えない声を上げ、目を血走らせる。

愚弄されたとでも思ったのだろうか？　

さすがにそこまでの高度な精神活動はないかもしれないが、人間の目にはそう見えてしまう。

「ごっは！　ごっはっ！！」

鼻息ももはや蒸気機関の作動音のようだ。

そんなドムグに向かっていって角の攻撃を躱して爪の一撃を加える。が、硬い毛に覆われている上に皮膚も分厚く、さらにその下には鎧のような脂肪があるという体には、まったくダメージを与えられない。おそらく、人間が子猫に爪を立てられるほどのものでさえないだろう。

それでも彼女は続ける。今度は首筋に蹴りだ。しかし、本当に分厚い毛皮で包んだ岩を蹴ったかのような感触があっただけで、まったく威力が通った印象がない。これでもおそらく人間相手なら十分な威力があるはずなのだが。

とは言え、イティラの力では翻弄はできても倒すことはできないことは最初から分かっていた。だからそれは狙いではない。

『もっと……！　もっとだ！　もっと怒れ！！』

ドムグの感情が昂っていることを察し、イティラはさらに集中する。

ギリギリまで接近にしては離脱を繰り返す。まるで挑発するかのように。

けれど、イティラ自身は決してからかってるわけでも侮辱しているわけでもない。彼女はただただ自分の役目を果たそうとしているだけだ。

ただし、ほんの僅かな失敗で命さえ落としかねない役目だが。

ドムグは纏わりついてくるイティラにますます興奮し、無茶苦茶に暴れた。

周囲の枝葉はまるで竜巻にでも巻き込まれたかのように弾け飛び、イティラが足場にした細い木（それでもウルイの腕以上の太さがある）にドムグが突進すると、

ゴズンッ！！

という何とも言えない音と共に、楊枝でも折るかのように容易く折れて倒れてしまった。イティラは寸前で躱せたが。

しかも叩きつけたドムグの頭の方にはまったくその痕跡さえ見えない。

角で串刺しを免れたとしても、こんな頭がぶつかったら、人間の内臓くらいは簡単に破裂するだろう。

「がふうっ！！　がふっっ！！」

涎をまき散らしながら、もはや呼吸音なのか何なのか分からない音を立て、ドムグは狂乱する。

恐ろしい姿だった。

もちろんイティラも恐怖を感じていた。けれど、その恐怖に呑まれたらダメだと彼女も分かっている。

『ウルイがやっつけてくれる……！　ウルイなら……！』

自らにそう言い聞かせ、蜘蛛の糸を渡るかのような戦いを、彼女は続けたのだった。

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。（ログインが必要です）

新規登録で充実の読書を

マイページ: 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる; 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める; フォローしたユーザーの活動を追える
通知: 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴: 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい