第169話 感情に折り合いを 後編

 あの後、やはり問題になったが、幸いにもあの青年が上手く立ち回ってくれたのもあって、私はお咎めなしとなった。もちろん、私がホロコースト部隊に所属しているというのは大きいが、それよりもリストアがレジスタンスに対して暴力を振るったということが大問題になり、気がつけば『そういえばヴィクトリア、誰か蹴り殺したんだっけ』と言われるほど、私の起こした事件が霞んでいた。

 ミルドレッドの亡霊と、被害者の女性の恋人に責められて精神的に追い詰められていたときに追い打ちをかけられたから、あの少年が死んだことは不可抗力だと思った。だから別に罪悪感を覚えることはなかった。それよりも、亡きミルドレッドにかけられる圧力から早く逃れたい。

 そして今日も私は真夜中に汗だくで飛び起き、作業のように体内にアルコールを入れる。

 ベッドで横になり、酩酊状態の鈍い思考の中で、

「……証言……して……くれた……彼に……お礼……しないと……」

 とポツリと言った。

「……なにが……いいん……だろう……甘いもの……は……男の人……は……嫌い……か……じゃあ……現金……?」

 考えているうちに眠気がやってきて、私は泥のように眠った。

「……頭……痛い……」

 今日は非番のため、私は惰眠を貪っていた。よってベッドから出たときには窓から入る陽光が赤く染まっていた。

「…………」

 働かない頭で制服に着替えると、引き出しからわずかに厚みのある封筒を取り出し、私はレジスタンス本部近くのリストアを管理する建物に足を運んだ。

 レジスタンス本部に比べるとその建物はかなりぼろぼろで、ロクに修繕も行われていないという、いかにもな手抜き工事の欠陥建築だと見て取れた。

 私は入り口付近の管理人室で件の青年の部屋番号を訊ねる。

「……どこ……?」

「彼でしたら今日は非番なので、階段を上がっていただいて、三階の右をずっと奥に進んだ部屋にいるはずですよ」

 やはりホロコースト部隊に所属しているというのは便利だ。管理人は私の格好を見るや否や高級ブランドの服飾店の店員のように甲斐甲斐しく、それでいてわざとらしい態度で接した。

「……ありがとう……」

 一礼して私は教えてもらった場所に向かった。


 扉を叩く。

『どちら様ですか?』

「……ヴィクトリア……」

 私が答えると間髪入れずに鍵が外され、扉が開いた。その隙間から少し困惑したような表情を浮かべた青年が顔を出す。

「す、すみません、今日は非番なものでしたから……このような怠惰な格好で……」

 青年は上下灰色の毛玉がついた挙句、ところどころ糸がほつれているスウェットを着ており、微かにお酒の匂いを漂わせていた。

「……いい……非番……だから……」

 青年の服装は良くなかったが、部屋は潔癖とまではいかないが、綺麗に掃除されており、テレビ・ドラマの部屋のセットに使えそうなぐらいには整理整頓がされていた。

「ところで、自分に何の用事ですか? わざわざホロコースト部隊のあなたが来るというのは、なにか大きな仕事ですか?」

 青年は真剣そうな顔で訊ねた。

「……ああ……別に……大した用事……じゃない……ただ……少し前の……事件の……お礼……したくて……」

「そんなのいいですよ。自分らの代わりに最前線で命をかけて戦ってくださっているのですから、無礼な者から守るのは当然ですよ」

「……でも……あなたの……おかげで……助かったのは……事実……だから……ほら……なにか……欲しいもの……ある……?」

「んーっと、そうですね……じゃあ、あなたのその感謝の気持ちをください」

 ──このように無欲な人間に会ったのは久しぶりな気がする……。普通、貰えるものは最大限貰っておくものだろう。それなのに……。

「……ありがとう……」

 私ははにかみながら言った。

「どういたしまして」

 青年もはにかんで答えた。その屈託のない笑顔が輝いて見える。

 それから青年は、

「そうだ、あなたは甘いものは召し上がりますか?」

 と続けた。

「……まあ……かなり……食べる……甘いものは……好き……」

「そうなんですね、それはちょうどよかった。実は今朝、ケーキを買ってきたんですよ。あの通りのいつも行列ができるお店、あるでしょう?」

「……まさか……」

「まだ日も昇らないうちから並んで、ようやく買えたんですよね。それがまだ一つ残っているので、よかったら食べませんか?」

 青年の言う店はいつだって行列ができているが、大衆向けの商品の割には値段が高い。しかしそれでも悪評は一つ足りとも聞いたことがない。

「……でも……」

 皆が口を揃えて好評する貴重なそれを青年は私に差し出そうとしている。

 ──なにか寄越せと圧力かけちゃったのかな……。

 私が言葉に詰まっている一方で青年は立ち上がり、冷蔵庫からケーキを取り出し、フォークと一緒に私の前に置いた。それから再度冷蔵庫を開けて液体で満たされたボトルを手に取ってはグラスに注いで、それも私の前に置いた。

「はい、これは特製のフルーツティーです。お口に合うかは分かりませんが、飲んでみてください」

「…………」

 口に運ぶ段階で一瞬フルーツティーの匂いを嗅いだ。自然の香りが仄かに鼻腔をくすぐった。

 フルーツティーを口に含み、飴玉のように口内で転がし、嚥下した。柔らかく控えめな甘さと後に残る清涼感は後引く美味しさであった。

「……美味しい……これが……作れる……すごい……」

「ほ、本当ですか? ありがとうございます! あなたの口に合ったようでよかったです」

 青年は褒められた子どものように満面の笑みでそう言った。

 それから私は出されたケーキを食べながら青年とたわいない話で盛り上がった。

 青年は多くの隊員と同様に、吸血鬼に家族を殺されたここで働いていると話してくれた。それからいつも笑っている理由も教えてくれた。彼曰く、笑っていたら良いことが引き込めるからとのこと。逆に暗くて辛気臭い顔をしていると、よくない負のものが纏わりついてきそうだからとも言っていた。

 それから彼はもう一つ興味深いことを言っていた。それは私がケーキを食べ終わったときのことだ。

「……こんなに……良いもの……出してもらって……別に……ホロコースト……だからと……気を……使わなくても……」

 と私が言うと、青年は、

「確かにあなたがホロコースト部隊に所属しているからって理由は一割程度はありますが、それよりも──」

 と区切って、

「──魅力的な女性の笑顔が見たかったんですよ」

 と清々しくさも当然のように言ってのけた。

「…………」

 私の思考が停止した。

 ──魅力的……? 誰が……? 私……? そんなまさか……。

 グルグルと同じ言葉が脳内で繰り返された。


 その日の夜は不思議と悪夢に苛まれることなく、よく眠ることができた。久しぶりにアルコールに頼らずに眠り、寝覚めが非常に良く、その日の任務も無事に遂行できた。

 次の日も、その次の日も、またその次の日も私が悪夢を見ることはなかった。夜、目を閉じたら、翌朝まで一度も起きることなくぐっすり眠れるようになったのだ。

 これは喜ばしいことではあるが、同時にミルドレッドに対する思慕が消えていくような気がして、私は気が気でなかった。

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