第159話 現実は異なって 中編

 アタシはシェリルとの約束を果たすため、より一層努力をした。それに比例するように薬は種類も量も増えていき、体が壊れてしまいそうだったが、それでも一向にやめなかった。

 そしてシェリルの手配で彼女の同僚のホロコースト部隊数名によって一ヶ月の特別訓練を経て、アタシは特異体と対峙した。

 空気が冷たい。威圧感によってアタシは今にも押し潰されてしまいそうだった。脚は生まれたての子鹿のように小刻みに震え、ロングソードを握る手の感覚はないに等しかった。

 ──シェリル、アンタに失望なんてさせない。今度こそアタシはアンタの期待通りに、完全に、完璧にやってみせます。

 目の前には二メートル近い高さでスタイルの良いマネキンが立っている。──これが特異体『渇望の女王』だ。

 特異体の顔は殴られて原型をとどめていないようなぐちゃぐちゃなもので、首にはネックレスのように一本の線が入っている。着せられた豪華絢爛な白いドレスは真っ赤に染まり、手には鉈が握られていた。

 アタシは手首を捻ってロングソードを持ち替えると、目の前でゆらゆらと左右にゆっくりと揺れ動く特異体を見据えた。

 特異体が金切り声をあげる。耳をつんざくような絶叫に頭痛がしたが、それに恐れることはなく、アタシは大きく踏み込んだ。何度も何度も細かく捻って作り上げられた糸のようなしなやかで強靭な筋肉を唸らせて、人間離れした身体能力を発揮する。

 そして瞬く間に間合いを詰めると、ロングソードを特異体めがけて薙ぎ払った。

 刃が一閃し、金属が接触して発せられる甲高い音が響いた。特異体に接触する直前に床から銀色の金属製の棘が生えてきて刃を防ぎ、それ以上ロングソードが進むことはなかった。

 すぐさまアタシは跳躍して後方に逃げる。一拍置いて、今までアタシが立っていたところに鉈が振り下ろされた。とてつもなく大きな音を立てており、相当な威力のように思えたが、床には傷一つ付いていない。

 ──おいおい、一体原料はなんなんだよ、この床。

 そう思いながら反撃をしようと着地点を確認すると、床から棘が生えてきて、アタシの足を貫こうとしていた。

「──うわっクソっ!」

 咄嗟に空中で猫のように体を捻って着地点を僅かにずらして串刺しの刑を免れると、すぐさまその場を離れた。一息つく暇もなく床からアタシを狙う棘が連続的に生えてきた。

「──本気は出して欲しくないものだな……」

 水切りのように床を蹴って宙を舞い、次々襲ってくる棘を回避していった。

 一心不乱に逃げ続けて数分が経過するが、一向に攻撃が止む気配がしない。棘は生えては引っ込み、生えては引っ込みを繰り返しているが、その間隔は少しずつ短くなっていき、床だけではなく壁も蹴って回避するはめになった。

 ──いくら体力があるからって、そろそろ限界だ。

 全身に満遍なく酸素を送るために肺は目一杯空気を取り込もうと膨らんだ。しかしどれだけ吸い込んでも満たされず、体は、筋肉は、脳は、酸素を欲した。

 次の瞬間、視界は墨をぶちまけたように一瞬だけれども暗くなり、アタシは目測を誤った。それに気づいたときにはもう遅かった。

 特異体の動きを見ながら次の動きを予測して着地点を臨機応変に変更し、なんとか回避していたアタシだったが、視界が原因不明の黒に遮られたせいでそれが狂い、着地したところに棘を生やされた。

 靴を貫通し、足の裏に棘が到達して血が滲んだが、深く刺さる前に体重を移動させて引き抜き、その場から逃げ出した。

 だがその行動に大した意味はなかった。

 何度も棘が生えてきた白い床は隆起して砕けてボコボコになっているが、そこへさらに赤色の汚れが付着した。

 アタシは床から少し浮いた状態で横たわっていた。腹部には成人男性の前腕ほどの太さの棘が貫通していた。そこから脈打つたびにどくどくと鮮血が溢れ出している。

 棘を押さえてこれ以上刺さらないように必死に抗っているアタシのところへ特異体がゆっくりと近づいてきた。握りしめている鉈は、煌々と空間を照らす照明によってギラギラと光った。

 特異体は一歩、また一歩と歩を進め、少しずつアタシとの距離を縮めてきた。

 自力では動けないアタシはどうすることもできず、迫ってくる特異体をただ眺めることしかできなかった。

 死が刻一刻と近づいてくるのがよく分かる。首にナイフを宛てがわれたように、生殺与奪の権を握られているのを理解した。

 ──もうダメだ、これ。……シェリル、ごめんなさい。

 特異体が間合いに入った。そして握りしめた鉈を振りかぶる。

 ──ごめんなさい。

 鉈が首に振り下ろされた。

 反射的に目を閉じて歯を食いしばった。しかしいつまで経っても痛みは来ない。

 一呼吸置いて硬いものが転がる音がした。

 恐る恐る目を開けると、鉈を持たない特異体はアタシに興味をなくしたように少しばかりしょぼくれて、元いた位置に戻ろうとしていた。

 ──なんだ、なんだ、なにが起きたんだ……? だがこれは好機……。

 アタシは大きく息を吸って、ゆっくりと吐き、呼吸を整えた。腹部の傷口に集中し、そして決意する。

 歯が砕けてしまいそうなほど食いしばり、脳が全身の筋肉に命令した。限度以上の動きを要求したにもかかわらず、体はその通りに動き、貫通していた棘から体を引き抜いた。臓腑と肉のおかげで貫通してぽっかりと開いていた穴は多少塞がったが、それでも出血量は甚だしく、そう長くは保たないこを悟った。

 ──動け、行け、やれ。アタシならできる、できる、できる……!

 近くに転がっていた得物のロングソードを掠めるように拾い上げると、背中を向けていた特異体の首めがけて薙ぎ払った。

 次の瞬間、特異体の服が破れて弾け飛び、肉体が棘と同様の金属製に変化し、一部はくっついたまま縦に二つに割れた。中にはなにもなく、人間が入れそうな空間になっていた。

 今さら回避するなど、今の体の状態では不可能だった。アタシはそのまま特異体の空間に吸い込まれるように入った。

 アタシと衝突してゴトンと音がしたが倒れることはなく、二つに割れた特異体はまたくっついた。

 ──どうなってるんだよ、これは!

 アタシはあろうことか特異体の体内に閉じ込められた。中で暴れようにも体は既に限界を迎えているし、そもそも動くにしては空間は狭すぎた。

 ──おいおい……どうすりゃいいんだ……出られないじゃないか……。

 脱出する方法を考えるが、思いつく気がしない。それに──。

 ──意識が遠のいてきた。

 閉じ込められているのもあるが、それ以上に視界はどんどんと暗く、狭くなっていき、思考もままならなくなっている。

 先ほどの元気の前借りによって腹部は常に激痛が走り、体は動かない。八方塞がりの中、アタシは諦めて目を閉じた。

 ──やっぱりダメだったか……。

 事前にシェリルから渡された特異体の報告書の通りに特異体は動き、アイアンメイデンのように無数の棘が一斉に生え、アタシの体を刺した。

 ──ごめんなさい。

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