第156話 不幸で幸福な自分は 中編
両親から惜しみなく愛情を注がれた妹はすくすく育ち、無事に五歳の誕生日を迎えた。そんなある日、突然両親は離婚した。
アタシは意味が分からなかったが、父と離れられるということに変わりはないから、心底喜んだ。万年睡眠不足で不健康の権化のようなアタシでも、それを聞いた日ばかりは目が冴えて心が踊り、普段とは異なる形で寝付けなかった。
それからアタシは母と妹との三人暮らしを始めた。そこは郊外にある三人で暮らすにはいささか狭いアパートメントだった。不潔には感じない程度に使用感のある家具に囲まれて、いつも通りの生活を始めた。
父がいなくなったことで身の危険は感じなくなったから良かったものの、生活がしづらいことに変わりはない。やはり母はアタシのことがあまり好きではないらしいから、最低限の世話以外でアタシと関わろうとしなかった。アタシが学校が終わってから食べようとしていたプリンを妹に食べられたときはもちろん、アタシが誕生日に買ってもらった数少ない私物を妹に壊されて喧嘩になったときでさえ、母はアタシに対して『お姉ちゃんなんだから』の一言で済ませてきたのだ。挙げ句の果てには母にビンタをされた。
「悪くないのに……全部あいつが……」
アタシはシャワーを浴びながらいつも泣いていた。
日々に莫大な不満を抱えながら、三人暮らしが始まってから二カ月が経った頃、アタシは母からあることを伝えられた。
「ほら、行くわよ」
そう言って母はアタシの腕を引っ張る。それに対してアタシは腕がちぎれそうなくらい全力で対抗した。扉にしがみついて泣き叫ぶ。
「お父さんに会いに行くの」
「いや! いやだ! 絶対行かない! 離してよ!」
近所の人はアタシの尋常じゃない叫び声を聞いているはずだが、おおよそ病院の予防接種が嫌だとか、歯科治療が嫌だとかで泣き叫んでいるのだろう、と思われているようで、警察が来ることはなかった。
玄関で騒いで十数分が経過した頃、母は痺れを切らしてアタシの頬を引っ叩いた。バチン、という音と共に、アタシは床に転がった。
「もういい! 勝手にしなさい」
吐き捨てるように言った母は妹の手を掴んで家を出て行った。
アタシはひんやりとしている玄関の床で横たわったまま呆然と母の後ろ姿を見ていた。
「……なんで……なんで……ママはアタシの話を聞いてくれないの……」
涙が溢れ、伝ったところがまたひんやりと感じられた。
月に一度、母は妹を連れて父に会いに行く。その度に母はアタシも連れて行こうとするが、毎度死ぬほど嫌がって拒むアタシに愛想を尽かし、五回目にはもうなにも言わなくなった。
毎回帰ってくるたびに妹はあれを食べた、これを買ってもらった、どこそこに行ってきた、と嬉々としてアタシに報告してくる。それを聞くたびにアタシは頭が痛くなり、あるとき妹の頬を引っ叩いた。
妹は一瞬なにが起きたのか理解ができないと言った顔をしたかと思えば、わんわんと泣き始めた。
──うるさい。
そして泣き声を聞きつけた母が妹を慰める。
「お姉ちゃんに叩かれたの?」
──うるさい。
「痛かったねえ」
──うるさい。
「お姉ちゃんはちゃんと叱っておくから、向こうでお菓子でも食べていなさい」
──うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい。
妹を離すと、母は無表情になってすっと立ち上がり、アタシの前に仁王立ちして睨みつけた。
「なんで妹を叩くの? お姉ちゃんでしょ? 仲良くしなさい」
そう言ってアタシの頬を引っ叩いた。
頬がじんわりと熱を孕む。
「だって……」
間髪入れずにもう一発叩かれた。
「…………」
なにも言わなくなったアタシを見て母は、
「次やったら承知しないよ」
と母親とは思えないほど冷酷に言って、妹のほうに行った。
「……もう知らない」
その晩、アタシは初めて家出をした。家の近くにある雑木林の中で夜を明かし、翌朝家に帰った。すると家の扉は鍵がかかっていて開かず、何度か叩いてようやく起きてきた母が面倒くさそうに扉を開けてくれた。
──捜してもくれなかったんだ。
アタシはこのとき、この人になにかを求めようとするのはやめようと誓った。
──アタシはただ……ただ……心配して……気にかけて欲しかっただけなのに……。
涙をぐっと堪えて、アタシは朝食を済ませた。
そのような生活をしてアタシが中等教育を受けるようになった頃、珍しく母はアタシを父に会わせようとしてきた。そのときの母は酷く怯えていたのと同時に、とても申し訳なさそうにしていた。見たこともないようなその様子にアタシはとてつもない違和感を覚えたのもあり、今回も拒否した。
すると母はこの世の終わりのような絶望しきった表情を見せてアタシに掴みかかってきたが、母よりも頭一つ分ほど背が高く、体格に恵まれていたアタシに勝てるはずもなく、母は床に倒れ込んだ。
「なにがあるのかは知らないけれど、アタシを変なのに巻き込まないで。もう関わらないで、最低限の世話だけしていてよ」
吐き捨てるように言うと、アタシはスクールバッグを引っ掴んで急いで家を出た。スポーツをしていて体力に自信のあるアタシだが、今回ばかりは息を切らすほど全力で走って学校に向かった。
それから二十四時間が経つかどうかというときに、父と母と妹が亡くなったということを聞いた。どうやら大規模な爆破のテロリズムに巻き込まれたようだった。それを聞いて、アタシは内心とても喜んだが、それを外には出さずに奥底に隠すと、突然家族を失って取り乱す遺族を演じてみせた。
学校から帰ってきて家のテレビで夕方のニュースをつけると、日中に起きたらしいテロリズムのヘリコプターから撮影したらしい映像を延々と放送していた。
映像では見上げてもてっぺんは見えないような高いビル群から黒い煙がもくもくと上がっていて、地上は救急車や警察車両で埋め尽くされ、制服を着た人たちがせわしなく働いていた。
その衝撃的な光景を目にして、これが同じ世界で、それも割と近くの地域で起きているなど、にわかには信じられなかった。驚愕のあまり、持っていた液体で満たされたコップを落として中身を床にぶちまけた。
のちに回収された家族の死体を確認するが、どれも黒焦げかつバラバラになっており、とても見られたものではなかった。
警察の人たちはよくもまあこれらの真っ黒な肉塊をアタシの家族だと特定したものだと非常に感心した。父はともかく、母も妹もそこそこ長い時間共に暮らしてきたアタシでも、それだと気づくことはできなかったのだから。
こうしてアタシの家族は実質ゼロになったのだが、不思議と悲しみは生まれなかった。それよりも不謹慎な話だが、喜びがあった。
皆が亡くなったことでアタシのところには決して少なくない額の遺産が入り、当分の生活には困らなかった。それにもかかわらずアタシは生活を変えず──否、一日に一度、瓶入りの少しお高い牛乳を飲むようになったが、それ以外はいつも通りに過ごしていると、ある日家の扉がリズミカルに叩かれた。
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