第155話 不幸で幸福な自分は 前編
「お姉ちゃんなんだから」
アタシはこの言葉がずっと嫌いだった。物心がつく頃には、この言葉に対して吐き気を催すほどの嫌悪感を抱いていた。この世のありとあらゆる現象に対してアタシが顔をしかめると、親は──母は決まってこの言葉を言ったのだ。
アタシにはどうしようもない、理不尽なことに年相応の反応をしても、だ。頭を撫でて慰めるわけでも、抱きしめて不快感を払拭してくれるわけでもなく、母がしてくれたのは、『お姉ちゃんなんだから』と言って突き放すだけだ。
そのような母に対して、父はこれまたどうしようもないクズだった。そう言う理由は単純だ。なぜなら──。
あれはアタシが就学するよりもずっと前の出来事だった。
部屋にはカーテンの隙間から残月の心もとない光が差し込んでいた。どうにか部屋の家具の位置が視認できる程度の明るさの中、事は起きていた。
全力で抗った。小さな体に秘められた僅かな力をすべて放出して。しかしアタシはまだ三歳か四歳の幼い子どもだ。だから大した力は持っていない。ましてや中肉中背の成人男性に勝てるはずもない。
「いやだ……やだ……やめて……パパ……離して……」
小さな人形のように白い手足がせわしなく動く。手は空を掴むように、足は空を蹴るように、アタシは子どもが寝るには大きなシングルサイズのベッドの上でもがいていた。
「やだ……やだ……」
荒く熱を孕んだ吐息が顔にかかる。
「やだぁ……やだぁ……やだぁ……離して……離してよぉ……」
手首を掴まれ、僅かな抵抗も許さないと言わんばかりにベッドに押し付けられた。
「ヴァイオレット……ヴァイオレット……良い子だからパパの言う通り、静かにしているんだよ……」
父はアタシが着ている前開きのパジャマのボタンを片手で器用に外し始め、アタシの体が露わになるのにそれほど時間はかからなかった。
そして父は事に及んだ。人間としての倫理観が完全に崩壊した行為に、だ。
この頃のアタシは幼いがために、その行為がどのようなものなのか到底知るわけもないのだが、本能は警鐘を鳴らし、猛烈な嫌悪感を覚えた。
アタシは普段から父とお風呂に入ることは決して少なくない頻度であったが、そのときは至って普通の父子に見られる様子だったと思う。
「……やめて……離してってばぁ……」
そして生温かいものが下半身に宛てがわれ、体内にめり込んできた。
「──うあっ!」
裂けるような鋭い痛みが走ったかと思えば、じわじわと熱が加えられるような燃え上がる鈍い痛みが残った。
「やだやだやだぁ──! 痛い! 抜いて! 抜いてってば!」
シーツに爪を立て、足をピンと伸ばして痛みを逃そうとするが、痛む場所が場所なだけに、あまり意味はなかった。
アタシが苦痛と嫌悪感から叫び声を上げれば、父はアタシの口にタオルを突っ込んで、行為を続けた。
体の奥を突かれるたびに鈍痛を覚え、目から大粒の涙が溢れ出す。
アタシはただこの苦痛しかない行為が早く終わるように願い、口に突っ込まれたタオルを噛み締めた。
いつのまにかアタシは眠っていたようで、次に目が覚めたとき、パジャマは元通りになっており、父もいなくなっていた。
──夢? そんなわけないよね。
アタシは下腹部を撫でた。そこにあるのは鈍痛だった。それからシーツを確認すると、一部が赤く染まっていた。だから急いでズボンを脱いで下着を確認すると、クロッチ部分に赤色のシミができていた。
「……なにこれ……」
多量の血液を──それも自分の血液を見て気分が悪くなったアタシはトイレに駆け込んで、胃液をぶちまけた。それから何度もうがいをして、シャワーを浴びて、シャンプーを頭からかぶっては皮膚を掻きむしった。
白かった皮膚は真っ赤に腫れ、いたるところから血を流した。爪や手は血にまみれ、アタシは泣き叫んだ。痛みはもちろん、自分が穢れたような気がして耐えられなかったからだ。
一日をそのように過ごして、日が暮れた頃に父が帰ってきた。惣菜が詰まったパックが入ったビニール袋を持って。全身血まみれで疲れ果てて脱衣所で倒れて眠っているアタシを抱きかかえると、体をシャワーで洗い流してくれた。
それからどうしたのかはよく覚えていない。気がついたらぼろぼろの傷だらけの体には薬が塗りたくられており、ガーゼで覆われていた。
それが良くなり、もう傷も見えなくなった頃、ようやく家に母が帰ってきた。──妹を連れて。母は出産のために一ヶ月近く入院していたのだ。
「ママ!」
アタシは久方ぶりに会えた母に抱きついた。しかし、母はアタシを鬱陶しそうに払いのけ、父と会話を始めた。
それからも両親は妹につきっきりで甲斐甲斐しく世話をしており、アタシはほとんど放置されていた。だが最低限の食事だけは与えられていたから死ぬことはなかった。
──やっと会えたのに……やっと助けてもらえると思ったのに……。
ただ、一つ運がよかったのは、父は実の娘が可愛いようで、血の繋がりのない戸籍上だけの娘であるアタシのことなど完全に興味を失い、あの日のようなことは二度と起きなかったということだ。
アタシはそれだけで嬉しかった。あの日のような恐怖と苦痛を味わうことがないのだから。だが、しばらくの間は眠ることができなかったから、いつも目の下には真っ黒な濃いくまができていた。
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