第132話 無意識の少年 中編

 僕のお腹にある模様はアメーバのようにもぞもぞと蠢く。だが蠢くばかりで体外にはなんの変化ももたらさない。

「……おい、ナスチャみたいにやってくれよ。頼むから」

 表面を何度も指ですりすりと撫でるが、やはり変わらない。僕がどれだけ祈っても状況が好転することもない。

「……頼むよ」

 ──あんなにカッコつけて言っておいて、発動してくれなければ僕はただの痛い露出狂なってしまうじゃないか。そんなのは嫌だ。

 僕は自分の腹を撫でて祈るが、やはり変化は見られなかった。

 ──穴があったら入りたい。それもうんと深くの、誰も来られないようなところに……。

 二重の恥ずかしさから僕の顔は火照っている。

 祈っても無駄だということをようやく察した僕は、わざわざ待っていてくれた吸血鬼に微笑みかけて、近くに落ちている制服を手に取ると、まるで今まで何事もなかったかのように着た。

「お前はなにも見ていない、いいな?」

 呆然とこの光景を見ている吸血鬼はコクコクと頷くと、次の瞬間には素手の間合いに入ってきた。腰を低くして体を捻り、僕の下腹部に手刀を突き出した。

 皮膚が裂けて血肉が僅かに飛び散る。しかしそれ以上、血肉は出なかった。一拍置いて、腹から青色の粘度のある液体が滲み出て、吸血鬼の拳に纏わりつき、引きずり込むように呑み込んだ。

 咄嗟に吸血鬼は僕の腹から拳を引き抜こうとするが、青色の液体は手にべったりと付いて離れない。

「な、なんなんだよ! これは──」

 焦る吸血鬼のがら空きの脇腹に僕は飛び蹴りを決めた。すると言葉が途切れ、潰れたカエルのような声を出しながら大した質量を持たない吸血鬼は吹き飛び、床に転がった。

 ──やっと陰の能力が使えた! この調子でどんどん行こう! 目指すはナスチャだ!

「はっはっは! 見たか! これが僕の能力さ!」

 我ながらアホの権化のような渾身の決めポーズをしていると、いくつもの荷物を載せた高速道路を走っているトラックに衝突されるような衝撃を受けた。すると当然ながら僕は飛ばされて、どこまでも続く真っ直ぐな廊下を十数メートル進んだ先で床に打ち付けられ、何度か転がってからようやく止まった。

 全身を酷く打ち付けたせいで呼吸がしづらく、それに加えてバラエティー番組の常連である熱湯風呂に飛び込まされたように体中が燃えるように熱かった。

 唸り声を上げながら必死に起き上がろうとするが、上手く体に力が入らない。脳からの指示は受け付けているが、肝心の肉体はストライキを決行しているようでまるで動かない。

 ──あぁ、クソ。ダメだ、どれだけ治癒能力が上がったところで、一撃があまりにも大きすぎたら意味がないんじゃないか……。

 コツコツと狭い廊下に響く足音が聞こえる。恐らくそれは吸血鬼のものだろう。だんだんと近づいてきて、僕にとどめを刺そうとしているに違いない。

 どうにか体を動かそうと努力するが、指先が釣り上げられて時間が経過した弱っている魚のようにピクピクと動かすことしかできない。

 ──シェリル、見ているなら早く助けてくださいよ。もう僕は無理ですって。もう動けません。

 半ば諦めて床の冷たさを堪能していると、また新たな足音が聞こえてきた。タップダンスでも踊るかのような軽い足音に僕は耳を澄ませた。

 ──シェリルじゃない。……誰だっけ、この足音……聞いたことがある……だけど思い出せない……。

 僕の近くでそれは急に止まった。布の擦れる音がして、続けて銃器の安全装置を解除する音がした。それも聞きなれないタイプの音で、少なくともそれがハンドガンではないことを理解した。

 ──おいおい、僕を巻き込むなよ。

 反射的にこの場を離れようと体に力を入れると、全身に沸騰したマグマが巡るような活力が湧いてきた。

 ──うわっ、なんだよこれ。

 途端に体は楽になり、疲労もまるで嘘のように消え去った。

 僕はすぐさま体を起こすが、完全に立ち上がることはなく、虎やライオンのように四足歩行に近い状態でとどめると同時に、背後を確認した。

「お前っ……」

 ハンドガンとは似て非なるものを両手で構えて銃口を吸血鬼に向けている上下ともに真っ黒なスーツに身を包んだ、深緑色の髪の少女がそこにいた。黄色に白抜きしたDの文字が印された腕章を付け、近未来的な形をしたハンドガンをぎゅっと握りしめている。その手は小刻みに震えており、トリガーに宛てがっている指は今にも誤射を招きそうなものだった。

 僕の驚いたような顔を見た少女もまた僕と同じような顔をした。

「……セシ……リア……」

 少女の口から僕の名が漏れる。

 僕は射線上から逸れて、少女の隣に行き、吸血鬼と対峙した。

「……ノエル、あれはお前の兄であるジョシュアに間違いはないか?」

 僕が耳打ちすると、ノエルはコクリとゆっくり頷いて、

「そう……あの人は……私の……お兄……ちゃん……」

 と震えた声で言った。ノエルは蛇に睨まれた小動物のようにかわいそうなほど体を縮こませている。表情から不本意ながら兄に銃口を向けているのが見て取れた。それに加えて、仕事だから仕方がないと体に命令をすることによる莫大なストレスに押し潰されそうになっているのが分かった。

「ノエル……お前が持っているその銃で吸血鬼は殺せるか?」

 僕の質問に対してノエルは目に薄っすらと涙を浮かべながら頷いた。

「分かった。……じゃあ、それを僕に貸してくれ」

 僕は生唾を飲み込み、一拍置いて、

「……僕がお前の代わりにジョシュアを殺す」

 と冷徹に言った。

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