第116話 特別の偽装 後編

「すみません!」

 わたしは表通りでお金を持っていそうな上品な格好をした男性の通行人の腕を叩いて呼び止めた。すると男性が振り返り、わたしを見る。

「はい? 私になんの用ですか?」

 男性の双眸がわたしに集中する。

 ──よし、かかった。

 わたしはハンドサインを送る。するとフードを深くかぶった子どもが勢いよく走ってきて、わたしにぶつかった。わたしは体勢を崩して地面に倒れ込む。

 男性を含めて周囲の人間がわたしに注目する。周囲の目がわたしに集まるのと同時に、わたしにぶつかった子どもは走り去っていき、人混みに紛れて姿はすぐに見えなくなった。

「大丈夫かい? お嬢さん?」

 男性がわたしに手を差し伸べる。

「あ、はい。大丈夫です。ありがとうございます」

 わたしが礼を言うと男性は、

「怪我がないようでよかった。──それで、私になんの用でしょうか?」

 と改めて聞き返した。

 わたしは事前にポケットに入れておいた男物のハンカチを取り出して、

「これを落とされたように見えたので、声をおかけしたのですが……」

 と言ってハンカチを広げて見せた。当然ながら男性は首を横に振って、

「これは私のではないようですね。──では失礼します」

 と言い、足早に去っていった。男性の背中が見えなくなるなると、わたしもすぐに路地裏へと駆けていった。

 臭気が漂い、陰鬱な気分になること間違いなしな路地裏に到着すると、どこからともなくフードを深くかぶった子どもが現れた。

「完璧だろ?」

 わたしがニヤリと笑ってそう言うと、子どもはかぶっていたフードを取り、

「きみが言う資格はないよ。これ、ほとんどがぼくのおかげじゃないか」

 と少年はやれやれと言わんばかりに手をひらひらと動かしてため息をついた。それから少年は中身の詰まった分厚い財布を取り出して、中身を漁った。

「……ん、じゃあ約束通り四割ね。はい」

 少年はクリップで留めてある札束の枚数を数えた後、十数枚の札を取り、わたしに渡してきた。わたしはそれを受け取り、枚数を確かめてから、

「はい、確かに。また次やるときに声をかけてくれよ」

 と言ってその場を後にした。


 ──これが少年の言っていた良い話だ。

 わたしの人の注目を集める能力と少年の人の注目を逸らす能力を使った、見つかりにくい窃盗に誘われたのだ。

 わたしだって金持ちを襲うのが効率が良いのは分かっていたが、さすがに盗むのは気が引けた。それにそもそもわたしは人の注目を集める能力があるせいで隠密行動は向いていないから、選択肢には入っていなかった。

 これを持ちかけられたとき、嫌な気分はしたが、それでも物乞いよりは確実に稼ぐことができるから、わたしは首を縦に振る他なかった。

 初めて実行したのは三ヶ月前のことだ。そのときは罪悪感で押し潰されそうになっていた。手足の感覚がなくなり、心拍数が上がり、冷や汗をかいた。

 だがそれも今となってはない。ノブレス・オブリージュだ。金を持っている人間は持っていない人間に施すべきだと当たり前に思うようようになっていた。

 ──だがそれでも心のどこかでわたしの善の部分が怒りを抱いていた。


 善の部分を深層に押し込んで、わたしが衣食住に困らない生活をしていたある日、また少年と共に窃盗をしていた。

 わたしが声をかけて、少年がわたしにぶつかる。注目を集めて、注目を逸らす。いつも通り少年が財布を流れるような手つきで抜き取った。だが──。

 ──気づかれていた。

 逃げようとする少年の後ろ姿は突如として真っ赤な花火へと化した。

 わたしの理解が追いつかない。夢でも見ているような気分だったが、周囲の人間の叫び声で現実へと引き戻された。

 わたしの前には二十代後半から三十代と思われる長身の黒髪の男性が立っている。印象的な赤い瞳に白磁のような肌、引き込まれるような顔立ちの美丈夫だ。

「スリなんて趣味が悪いじゃないか」

 絶対零度の抑揚のない声、無関心な双眸にわたしは逃げたくとも足がすくんで逃げられなかった。

 ──あ、死ぬわ、これ。

 本能が諦め、体に逃げるように指示を出すのをやめた。わたしは自分を俯瞰して、天災に巻き込まれたように妙に達観していた。

 男性がそっとわたしに手を出す。

 わたしはそれを取ることができない。

「大丈夫で──」

 わたしの目の前で肉が弾け飛んだ。鮮血と肉片と白くて硬いものと、よく分からないなにかを頭からかぶる。吐き気を催すような臭いがするが、それはまったく気にならなかった。

「…………」

 わたしは茫然と男性を眺めていた。

 ──理解できない。なにが起きた。分からない。気持ち悪い。彼は? 死んじゃった? これはなに? 臭い。嫌だ。怖い。助けて。

 男性は大きなため息をついて、

「汚れてしまったではないか、まったく……どうしてくれるんだい? これ」

 とぐちゃぐちゃの肉塊へと変わり果てた人間だったものを一瞥して言った。それから頭を押さえて、

「……まあいいか。白化した子どもが見つかったのだから」

 と言ってしゃがみ、わたしの頭の上に載っていた血肉を手で払った。ぷにぷにとしたそれが地面に落ちてぐちゃりと音を立てた。

「君なら耐えてくれるだろう? さあ、私と共に来てもらおうか」

 露出した臓器の表面を金属製のヤスリで削るような恐怖がわたしにまとわりつく。

 ──嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。

「……嫌だ」

 口から言葉が漏れた。

「まあ、君の意思は関係ないのだけれども」

 男性の手が黒く変色して原型をとどめなくなり、触手のように形を変え、わたし首を絞めあげた。皮膚が切れたようで血が滲む。

「……いや……だ……いや……たす……け……て……」

 味わったことのない悍ましい感覚にわたしは涙をこぼし、助けを求める。

「いや……」

 体内になにかが注入され、不快感からそれを取り除こうとするが、首を絞められているせいでそれは叶わない。

「…………」

 酸素が供給されず、意識が朦朧としてきた。不快感こそあるが、それもあまり気にならなくなってきた。

「…………」

 視界が暗くなってきた。

 ──これが罰なのか。


 そしてわたしの意識は途切れた。

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