第59話 幸福の眼球 後編

 辺りが騒がしくなり、意識が戻った。目を覚ましたが、視界は真っ暗なままでなにも見えなかった。

 眼窩の痛みは幾分かよくなっていてのたうち回ることはなかった。それでも痛いことに変わりはない。

 私が体を起こそうとすると何者かが抱き上げた。その人は温かくてとてもいい匂いがする。そして立ち上がり、歩き始めた。

「もう大丈夫。今から病院に行くからね」

 女の人の優しい声が聞こえた。私が手話で返事をすると、

「ごめんね、手話は分からないの。……文字は書ける? 書けるなら私の手に書いて。そうしたら分かるから」

 と言われた。

 私がコクリと頷いて、その人の手に指で文字を書いた。

『今、私はどうなっているの? 目が痛いよ』

「……あなたの目は……吸血鬼に取られてしまったの。だから……もう見えないかもしれない」

 女の人は悲痛に満ちた声で答えた。

『吸血鬼? それはなに?』

「……人を食べる悪い存在よ。あなたの両親を殺したのは吸血鬼なの。そして私はそれを退治するためにここに来た」

 今度は僅かに怒気を含んだ声で言った。

『パパとママを殺した吸血鬼は倒したの?』

「……まだよ。見つからなかったの。現場にあったのはあなたのご両親のご遺体だけ」

『そっか……』

 恐怖と憎悪を刃物でかき混ぜたような感情が私の深層に芽生えた。

「ところで体に変なところはある? 体調が悪いとか、怪我してるとか」

 私は首を横に振って、

『目が痛い。あと胃がキリキリするのと喉が焼けたような感じがするのと、呼吸がしづらい。息を吸ってもあんまり吸えてないような感じがする』

 と答えた。

「……分かった。それ以外は問題ない?」

 今度は首を縦に振った。

「……これから大変になると思うけれど、頑張っていこうね」


 こうして私は病院に入院した。病衣を纏い、出される食事を朝昼晩と食べ、決まった時間に睡眠をとるという規則正しい生活を送っている。

 ある日、女の人の計らいで再び景色が見られるようになるという複雑な目の手術を受けることになった。

 それは失った両方の眼球の代わりに、カメラを埋め込んだ球体を眼窩に入れるというものだ。そのカメラに映った映像を脳に伝達できるよう、映像を神経に対応した信号に変換する装置を頭の中に埋め込んだ。それによって擬似的に視覚の役割を果たさせることができるらしい。

 しかし手術の説明のときに聞いた話だと、この手術は半ば実験のようなものらしい。今まで幾度となくやってきたが、成功したことはないのだという。

 上手に脳とカメラを繋ぐことができても、視認した物体との距離が適切に調整できず、乗り物酔いのような症状が出てしまうようだ。

 それに苦しめられて死を選んだ人も少なからずいるということも聞いた。

 それでも私は一切の迷いなく受けると答えた。なぜなら目が見えるようになれば私は両親を殺した吸血鬼を倒しに行けるから。

 私の言葉に主治医も一緒に話を聞くべく立ち会った女の人も揃ってため息をついて呆れていた。

 そして一通りの手術の説明が終わって、主治医が部屋から出ていった後、女の人──ミルドレッド ・ガルシアが言ったことが頭から離れない。


『もしこの手術で目が見えるようになって、あなたに吸血鬼と戦う意思があるのなら、この紙に書かれた場所に来て。──待ってるから』


 そう言ってミルドレッドは一枚の名刺サイズの紙を渡してきた。表面を指でなぞってみたが、加工はされていないから平らなままで、目が見えない私にはなにが書いてあるかは分からなかった。


 手術は無事成功し、視覚を再び手に入れた私は全身麻酔が切れて意識が戻るのと同時に、ベッドから跳ね起きてミルドレッドから貰った紙を見た。そこに書かれていたのは──。

 ──モノクロの風景画だった。

 それは鉛筆で描かれており、濃淡の表現がとても自然で美しい。

 しかし私は住所の類いが書かれていると思っていたからとても困惑した。

『……ん?』

 その絵を凝視しているとすぐに気がついた。それは私にとってはとても馴染みのある場所──私の住んでいた家だった。

 今いる病院がどこに位置するのかは分からないが、なにがなんでもその場所に行かなければならない。

 ──両親の敵討ちをするために。

 心にある空っぽの瓶に一つだけ入れられた黒い憎しみの小さなカケラ。それが膨張と分裂を繰り返して瓶を圧迫していく。

 そうなると起きることはただ一つ。瓶は砕け散った。

 次の瞬間、脳にある一本の糸のようなものが切れた。

 一拍置いて、頭にかち割れそうな痛みが走った。それは立っていられないほどのもので、本能が防御しようと頭を押さえてうずくまった。何度も心臓が鼓動し、短くない時間が経過しただろうが、一向によくはならない。

 床でのたうち回っていると、その音に気がついた看護師が駆けつけて、事態を察したのかすぐさま医師を呼び、緊急手術となった。


 感情が高ぶると良くないということが発覚し、それからというもの私は極力心を無にして過ごすようになった。

 手術から数週間が経過し、体も適応してきたようで、少しは過ごしやすくなった。そのようなある日、急に眼窩に埋め込んだ人工物が自分の体と一体化したように感じた。

 すると不思議なことにいつもよりも脳に送られる映像が鮮明なものになっていた。

 カメラに映る美しい景色に圧倒され、その日は眠ることができなかった。空を見上げ、輝く星々を観察して夜を明かした。

 このカメラの素晴らしいところは目を凝らすといった意識的な動作をするこによって、自動で拡大、縮小をしてくれるのだ。

 これはとても便利なもので、数キロ先にあるものまで見ることができる。この点に関しては眼球を失ってよかったと思った。


 しばらく病院から日帰りの外出許可が下りたから、私は真っ先に紙を持って病院を出た。

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