第60話 愛情を巻いて

 紙に描かれていた場所にようやく辿り着くと、そこに一人の成人前後の女性が立っていた。

 女性は白と黒が混じった長髪に美しい真紅の瞳をしている。服装は髪の毛と同じような色合いで、正方形が繰り返された模様の外套をゆったりと羽織っている。

「こんにちは」

 女性は目を細めて柔和な笑みを浮かべて言った。

 この優しい声には聞き覚えがあった。──私を助けてくれた女の人だ。

 私はとっさに頭をぺこぺこと何度も下げた。

「ここに来たということは、あなたはその覚悟ができていると見ていいかな?」

 女性の──ミルドレッドの声色が変わったのが分かった。緊張と憎悪が混じっているように聞こえたのだ。

 少しの間とはいえ視覚が奪われた状態にあると、感覚は研ぎ澄まされるようになるらしい。

「とてつもない苦痛を味わうかもしれない。体の一部を欠損するかもしれない。最悪の場合、命を落とすかもしれない。──それでも私たちと共に吸血鬼と戦う?」

 ミルドレッドの瞳から生気が薄れ、代わりに不純物にまみれた粘度のある液体のような負の感情が満ちた。

 私は頷いた。

「……今ならまだやめられる」

 悲痛な面持ちでミルドレッドは引き返すように言うが、私の思いは変わらない。それはまるで子供の好奇心のようなもので、止めようと思って止められるものではないのだ。

 私の答えは既に決まっている。ミルドレッドがなんと言おうとそれは変わらない。

 私はゆっくりと決意を込めて点頭した。

「……わかった」

 ミルドレッドが小さな声で私の決意を尊重した。

 突風が吹いた。ミルドレッドの外套が風を孕み、裾を大きくはためかせた。隠れて見えなかった腰に装備しているものに視線が行く。

 それは二本あり、全長一メートルほどの見たことのない形状の刃物だった。それがサーベルやソードの類いなのは確かだ。しかしそれらとは確実に異なるということは浅薄な知識しか持たない私でも分かった。

 ミルドレッドは私の目を見たまま瞬き一つせずに腰に下げた刃物を抜いた。

 日に照らされた刃が一閃した。


「──ようこそ、対吸血鬼部隊・レジスタンスへ」


 それから私はミルドレッドの養子になって、ヴィクトリア・ガルシアという名を名乗るようになった。

 新たなファミリーネームに喜んで、私は紙に何度も何度も[Victoria Garcia]と書いていた。

 そのような平凡な日常とは裏腹に、日に日に両親を殺した吸血鬼への憎悪は募っていく。

 ある日、家の庭でミルドレッドが刃物を振っていた。

 ミルドレッドの視線はそこには存在しないなにかを見つめたまま、瞬き一つしなかった。殺意と憎しみと後悔を纏めて大釜に入れ、それを蛆の湧いたちぎれた人間の前腕で掻き混ぜる、そのような目をしていた。

 私はそれが恐ろしくて仕方がなかった。決まってその日の晩は眠れず、眠れたとしても夜中に目を覚ましてしまう。そして尿意を催すのだ。

 起きてトイレに行くのは当然の流れだが、私はその流れを非常に恐れており、毎回ミルドレッドを起こしてついてきてもらっていた。

 仕方がないだろう。私はまだ一桁の年齢で、このシチュエーションはトラウマになっているのだから。

 それでも面倒くさがらずについてきてくれるミルドレッドの優しさに、私はとても嬉しくなった。

 この頃には彼女を母親のように慕っていた。


「──なのだけれど、やってみる?」

 少しして私はミルドレッドからこのような話が持ちかけられた。

 それは私の声帯を手術で復活させる、というものだった。手術をするのなら、視覚を復活させた医師が執刀するそうだ。

『できるの? そんなこと』

 正直言ってとても怪しかった。彼に目を治してもらったのはどうなのか、と訊ねられてしまっては反論することはできないのだが。

「分からないよ。でもダメ元で試してみない? 目みたいに案外上手くいくかもしれないから」

 ミルドレッドは私の頭を撫でて温かい声で言った。


 結果は失敗だった。

 やはり切れたのが一年以上昔だということと、そのときの縫合が悪かったのがいけなかったらしい。咽頭のほとんどを摘出することになった。

 しかし無駄に首に傷を増やしたというわけではない。

 手術の際に再生が不可能そうだった場合、電気式人工咽頭という発声機械を使えるようにする手術を行うと決めていた。

 それによって私は無機質ではあるが、声を手に入れた。

 振動を与えて発声するのだが、毎回毎回機械を当てて話すのは面倒極まりないから、首にチョーカーという形で付けることになった。それのオンオフ切り替えも手でボタンを押して操作するのは不便だから、指で遠隔操作をできるようにした。

 それをするために信号を送るための小型の機械を手に埋め込んで使えるようにしてもらったのだ。指に力を入れることによって信号が送信される。一度入力されると、次に入力されるまでその信号は保持されるというプログラムが書かれているらしい。

「……おお……話せ……る……」

 首に大きな傷が残ったが、それでも再び話せるようになったことがとても嬉しい。

「……やった……ミルドレッド……ありがとう……」

 この話を持ってきてくれたミルドレッドに感謝する。するとミルドレッドは普段は見せないような、無邪気な子供のような笑みを浮かべた。

 私は指に力を入れては抜いてを繰り返した。それによって機械を埋め込むために切開して縫合した傷が痛んだが、今の私はまったく気にしなかった。

 それによって傷口がパックリと開いて再度縫合することになったのはまた別の話。


 発声のために指で信号を送ることにも慣れ、自分の体の一部のようになった。すると人間は貪欲なもので、高望みをしてしまうようだ。

 私はいつも鏡の前に立っていた。鏡に映る自分の首には、ミミズが這っているような薄っすらと赤い傷跡が残っている。

 それが気になって仕方がなかった。人に見られるのも嫌だった。悍ましくてこれが自分の体にあると思うと吐き気がする。

 私はいつも猫背で首を隠すようにして過ごしていた。首や肩が痛くなってくるが、それも気にならなかった。

 それを見て不憫に思ったのかミルドレッドが私にマフラーを買ってくれたのだ。それは引き込まれるような深緑色で、高級そうな素材で作られた上品なものだった。

 ──それがこのマフラーだ。

 気温など関係ない。どれほど暑くても私がマフラーを取ることはなかつた。それは傷を隠すためではあるが、それよりもミルドレッドからのプレゼントだということが嬉しくて片時も離したくはなかったのだ。

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