第29話 ホドの記憶 前編

 通気性抜群の体からはもう痛みを感じない。脳幹を損傷したせいで体は今にも消えてしまいそうだ。

 意識が朦朧とする。

 遠くで女の声が聞こえる。誰だろうか。まあ、どうでもいいか。俺はもうすぐ消え去るのだから。

「…………ホロコーストがホロコーストに殺される……こりゃまた酷ェアイロニーだな……」

 走馬灯が見える。

 過去の栄光に縋り付いた自分が惨めに思えた。


 俺はガブリエル。ファミリーネームはなければ、親の顔も覚えてはいない。物心ついた頃には孤児院にいた。

 だがその孤児院も酷いもので、保母たちからの躾と称しての虐待が横行していた。他の年上の孤児たちと喧嘩しても見て見ぬ振りだ。だから俺は毎日ボロ雑巾になっていた。

 さらに満足に食事も与えられず、常に胃は物を欲していた。なんでもいい、なんでもいいから胃に入れさせてくれ。だから俺は孤児院の敷地内に生えている雑草を食べた。外に出られた日にはゴミ箱を漁って腹を満たした。

 そんな生活に嫌気が差した俺はある晩、孤児院から脱走した。月が綺麗な夜だったのを妙に覚えている。

 裸足で駆けた。孤児院の関係者に見つからないようになるべく遠くを目指して。筋肉がちぎれそうなほどに足を前に持っていき、地面を蹴り、また前に持っていく。それの繰り返しだ。

 途中、ガラス片を踏んでしまい、足の裏を怪我したが、痛みはまったくと言っていいほど感じなかった。あの孤児院から逃げ出せたことが嬉しかったからだ。

 行く当てもなく走り続けて一体、どれほどの時間が経ったのだろうか。俺は見知らぬ土地に到着した。深夜だというのに通りは人でいっぱいだった。

 店の看板に設置されたネオンの光が開いた瞳孔を刺激する。嗅ぎ慣れない不快な臭いが鼻腔を刺激し、聞き慣れない爆音が耳をつんざく。

 目を細めて耳を押さえ、口で呼吸する。

 孤児院がこの世界のすべてだと思っていた俺は驚愕した。世界は俺が思っていたものより何十、何百倍と広く自由だった。

 孤児院から逃げ出したのはいいけれど、これからどうしようか。

 目まぐるしい人の流れを俺はただ呆然と眺めるだけだった。

 大人たちは俺に見向きもせず通り過ぎていく。こんな夜中に十にも満たない齢の子供が一人でいるというのに、誰一人として──否、一人声をかけてきた人がいた。

 しゃがんで耳を押さえている俺に、その人は露店で購入したであろう食料を差し出した。

 俺は顔を上げる。するとそこには美麗な二十代後半の女性が立っていた。鮮やかな黄色の髪に透き通るような碧眼で、俺はその瞳に吸い込まれるような感覚を覚えた。しかしその感覚は綺麗なものではなく、闇に引きずり込まれるようなものだった。

「食べる?」

 女性が手に持っているパンを差し出した。それは大人の前腕ほどの長さのフランスパンで、縦に切り込みが入っていた。そこに肉と野菜が挟まれ、ソースがかかっている。

 俺の胃が鳴った。

「食べなよ」

 女性は僕にパンを近づける。俺はそれを受け取り、

「ありがと」

 と小さく言って、食べ始めた。

 ロクなものを食べていない俺の胃はそれを歓迎した。このときの欲求が満たされる幸福は今でも覚えている。

「あらあら、そんなにお腹が空いていたのね」

 女性が俺の隣にしゃがみ込んだ。

 あっという間にそれを食べ終えた俺に女性が訊ねる。

「これからどうするの?」

「……これから?」

 女性は俺の体を眺めて、

「あなた、あの孤児院の子供でしょう?」

 と俺の目を覗き込んだ。司書が慣れた手つきで本棚から本を手に取るように、俺の嫌な過去を引きずり出してくる。

「……今日……逃げてきた。……だからもうあそこの子供じゃない」

 心臓をヤスリで削られるような恐怖を感じた。背中を嫌な汗が流れる。

「一応、私は大人の義務として、未成年のあなたをできるだけ早く孤児院に返さないと──」

 言い終わる前に俺は泣き叫んだ。

「嫌だ! もうあんなところにいたくない! せっかくここまで逃げてきたのに! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ──」

 そんな俺を女性は抱きしめてくれた。ただ触れただけなのに人の情、温もりを感じた。この上ない幸福を享受する。

「……提案があるのだけれど、私のところで私の代わりに家事をしてくれないかな? そうすればもう孤児院に帰らなくて済むよ」

 俺の頭を撫でて言った。

「そうする。お姉さんの代わりに家事する」

 俺はわんわんと泣いた。もうあの地獄に帰らなくていいなら俺はなんだってやってやる。そう──なんでもだ。


 俺は女性に連れられてスラム街の一角にあるアパートの一室に訪れた。その建物は老朽化が進んでおり、今にも倒壊してしまいそうだ。塗装が剥げ、ところどころ壁はなくなっており、見えてはいけないであろう菅が露出していた。

「はい、到着」

 女性が鍵を取り出して解錠し、扉を開けた。同時に凄まじい異臭が外に放たれた。なにかが腐ったような臭い。俺が今まで食べてきたゴミよりも圧倒的に臭かった。思わず鼻を押さえ、口で呼吸する。

 涙目になっている俺を見た女性は首を傾げ、

「大丈夫?」

 と訊ねる。どうやらこの臭いに女性は慣れているようだ。

「ほら、入って入って。ちょっと汚いけど──」

 そう言って俺に部屋に入るように促した。

 中は当然ながら汚かった。汚いの度合いはちょっとでは済まないだろう。世界中のゴミをこの一室に詰めたようなものだ。

 ゴミが散乱し、足の踏み場がなくなっている。キッチンは無事死亡。シンクは白いものがこびりついて、本来の銀色はずっと前に失っている。何年も前に使ったであろう食器が芸術作品のように積み重ねられている。

 唖然とする俺を尻目に女性は頬をポリポリと掻いて、

「……まあ、結構汚れてるかも」

 と言ってはにかんだ。

「とりあえずシャワー浴びよ。あなたも汚れてるでしょう?」

 そう言って女性は俺を否応なしにシャワールームに連れていった。

 相変わらずシャワールームも汚れている。あちこちで黒カビたちが連日パーティーを開いているようだった。

 俺が嫌そうにそれを見ていると、女性は既に全裸になっていた。大切な部分をタオルで隠すことなく晒している。

 俺はすぐさま女性から視線を逸らして体を見ないようにする。手で目を隠すが、指を開いて少しだけ見てしまった。

 豊満な胸、うっすらと線の見える引き締まった腹筋、鍛えられた腰回り。女性の体は今まで見たことがなかったので新鮮だった。

「あなたも脱いで。ほら、ばんざーい」

 されるがまま俺もすべて脱がされた。知らない女性に裸を見られるのは少し恥ずかしかった。

「顔真っ赤だよ。大丈夫?」

 女性は母のように笑って言った。

 俺はコクコクと素早く頷いて先にシャワールームに入った。


 絵の具のパレットのように俺の体には色々な痣が、痛ましい火傷跡がある。女性はそれを悲痛な面持ちで見ていた。そして丁寧に全身を洗ってくれた。石鹸のいい香りがする。

 汚いリビングに戻ると、女性は、

「あなたの名前はなに? なんて呼べばいいの?」

 と訊ねた。

「……ガブリエル。孤児院ではそう呼ばれてた」

「そっか、ガブリエルね。じゃあガブリエル、これからよろしく。私はエレン。気軽にそう呼んでいいよ」

「はい、エレン。これからよろしくお願いします」

 俺は頭を下げた。


 こうして俺の生活は百八十度変わった。

 エレンの部屋の掃除を始めた。足の踏み場もないほどに散らばったゴミを片っ端から袋に入れ、下のゴミ収集場所へ捨てる、という行為を三十回ほど繰り返したら、部屋は見違えるほど広くなった。

「おお! このアパートってこんなに広かったんだ! 久しぶりに床を見られたよ。ありがとね、ガブリエル」

 エレンはそう言って俺の髪をわしゃわしゃしながら頭を撫でた。

 この日を境に隣近所は害虫に悩まされることになった。エレンの家にいた黒光りの高速で移動するアイツがゴミがなくなったことで散り散りになったのだ。


 今日はレシピ本を読みながら料理をすることになった。幸いなことに字の読み書きは孤児院で教わっていたので、なにが書いてあるかは大方理解できた。

 エレンは朝早くに真っ黒なアタッシュケースを片手に出ていった。エレンは俺にいくらかのお金を昼食代にするように、と渡した。俺はそれを握りしめて街に出た。

 レシピ本に書いてあった芋を使ったスープを作るために材料を買いにいった。

 俺が料理をする理由は二つ。一つはいつも露店で三食済ませているので、たまには手作りというのもいいかと思ったから。もう一つはいつもエレンにお世話になっているから、自分でもなにか感謝の気持ちを伝えたかったからだ。

 必要なものをメモした紙を片手にスーパーマーケットを回る。冷蔵庫の中身は当然ながら腐っていたので、調味料の類いも買わなければならない。

 すべて買い揃えた俺は家に戻り、早速料理を始めた。大体のことは人並み以上にできるので、レシピの通りに作ればそこそこのものはできあがった。

 作り終えた頃には既に外は暗くなっており、ちょうどエレンが帰ってきた。エレンはおぼつかない足取りで部屋に転がり込む。

「お疲れ様、エレン。夕飯できたよ」

 俺はそう言ってトレイに一式を載せてエレンの前に運んだ。

 エレンから嫌な臭いがした。──血の臭いだ。全身を見渡すと、臭いの元を見つけた。

 黒い服だから気づかなかったが、エレンの肩から血が流れ出していた。部屋の明かりに照らされてそこだけがてかてか光った。

「大丈夫じゃないよね、エレン。怪我しているよ。待ってて、今応急処置するから──」

 俺は前に足の裏を怪我したときにエレンに治療してもらったことを思い出し、それを再現する。

 エレンの服を脱がせると、白い肌に赤の花が咲いていた。俺はそこに消毒液を振りかける。液体が傷に垂れるたびにエレンが苦悶の表情を浮かべて唸った。

「どうしたら痛くなくなるの?」

 俺は足りない頭で思考した。傷は消毒して覆っておく、という知識しかない。

「いいの、私は大丈夫よ。それに弾は貫通しているから──」

 エレンは俺の手にある消毒液の小瓶を取り、自分でガーゼで覆い、上から包帯を巻いた。

「……ごめんなさい。俺、なにもできなくて」

 申し訳なさそうに言うと、

「いいんだよ、ガブリエル。その気持ちが大切なんだから。──だから、そうやって料理を作ってくれたんだろう?」

 エレンはテーブルに置いてある料理を尻目に言った。

「レシピ通りに作ったから、まずくはないと思うけど……あまり期待しないでください」

 するとエレンは俺を抱きしめた。


 俺はいつもより温もりを感じてその日はまぶたを閉じた。

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