第19話 失われた街 後編

 ナスチャを頭に乗せて夜の森を歩く。

 帰り際にエリザヴェータが僕に抗体を作る薬を注射した。彼女曰く、この周辺に散布している人避けの薬は有害なもので、人間が吸引すると神経が麻痺し、呼吸器に異常をきたして死に至るとのこと。

 まさか人避けがそのような意味だとは思わなかった。僕はてっきり、人間が本能から森を避けるような薬だと認識していたものだから。

「それにしてもエリザヴェータはえげつない吸血鬼だよな」

 ナスチャも同感のようでコクコクと頷いた。

 あのピッチャーの中身の半分を搾りたてのレモン果汁が占めていたのだ。あれのせいで僕たちは死にかけたと言っても過言ではない。

 一時間ほど歩くとようやく森を抜け出せた。街は相変わらず廃墟になっており、夜のせいか余計に人の気配が感じられなかった。

 任務を終えるために目的の吸血鬼を探す。すると近くの建物から人間が転がるようにして出てきた。身なりは汚いが、綺麗な顔をした女性だった。

 恐怖に支配された人間の典型例だ。

 背中にあるクレイモアを見て、

「ああ、助けてください、どうか助けてください……」

 と縋ってきた。

 同時に女性が出てきた建物から叫び声が聞こえる。

 僕はナスチャに視線を送って女性の近くに下ろすと、一目散にその建物へと駆け出した。

 今にも倒壊してしまいそうな建物の階段を上り、声のする方を目指す。コンクリート打ちっ放しの建物は音がよく響く。

 声の主の元に辿り着いた。そこには逃げ出した女性と同じくらいの年齢の男性がいた。吸血鬼に手足をちぎられておりまともに動けなくなっている。

 黒髪の病弱そうな少年の吸血鬼に対して男性はなす術なく、ただ叫ぶことしかできない達磨になっていた。それは目も当てられない悲惨な状態だった。

 その横で吸血鬼はちぎった手足を黙々と食べている。まるでそこだけ現実と乖離した空間のようだ。

 僕はクレイモアを握り、吸血鬼を見据える。向こうは食べるのに夢中でこちらのことなど眼中にない。

 ならばさっさと叩き斬るまでだ。

 大きく一歩を踏み出し、脳幹の損傷を狙って刃を振り下ろす。

 しかしそれは当たらなかった。

 腕で刃を防いだのだ。柔らかそうな肌は一瞬で龍のような鱗を生やし、鋼をも超える強度を得た。

「食べてるんだからさぁ、邪魔しないでよ」

 吸血鬼が面倒くさそうに言い放つ。

 これ以上力を加えると剣先が折れてしまいそうなので、一旦後方に跳んで距離を置いて仕切り直す。

 するとまた食べかけの腕に噛みつき、肉を口いっぱいに頬張った。

 男性の叫び声と吸血鬼が肉を咀嚼する音が空間を満たす。それらは非常に不愉快で、吐き気を催すようなものだった。

 僕は男性の方に歩いていき、

「四肢が切断されたようだな。僕がこの吸血鬼を殺したとしても、お前はもう助からない。それにその出血量だと持ってあと数分だ」

 と冷淡に伝えた。すると男性は泣き叫ぶ。

「嫌だ、嫌だ、嫌だ! 死にたくない! 俺はカレンを! 子供を守らないといけないんだ! だから助け──」

 言葉が途切れた。

 男性の口から言葉が発せられることは二度となかった。

 切断された頭が転がる。

 断面から鮮やかな赤色が噴き出す。

 空間に静寂が訪れた。

 吸血鬼が呆然として食べている腕を床に落とす。一拍置いて、こちらに視線を向けた。

「ねぇ、お姉さん。なんで切っちゃったの? 僕、まだこの人の泣き叫ぶ声が聞きたかったんだけど」

 男性の瞳から光が失われ、電池を抜かれたロボットのようにまったく動かなくなった。

 刃に付着した血液を振り落とし、

「次はお前の番だ」

 と睨んだ。

 その瞬間、吸血鬼が飛びかかってきた。腕は鱗を生やして硬度を、爪は獰猛な獣のような鋭さを得る。僕はその攻撃をクレイモアで軽くいなした。金属同士が接触したときに発せられる甲高い嫌な音が響く。

 続け様に吸血鬼は僕の脚を狙って薙ぎ払うが、それを跳躍して躱した。鋭利な爪が空を切る。

 僕は上段に構えたクレイモアを一切の守りがない首に振り下ろす。しかし首の切断には至らなかった。

 吸血鬼の首にも鱗が生えたのだ。

「ねぇ、早くあの人を食べたいんだけど。死んですぐじゃないと肉が硬くなって美味しくなくなっちゃうじゃん」

 心底面倒くさそうに言う。そして腕で首に宛てがわれた刃を払った。折れないように握る力を弱めていたせいでクレイモアが僕の手からするりと抜けて、数メートル離れたところに転がった。

 すぐさまそれを取ろうと踏み出すと、吸血鬼は狙っていたかのように姿勢を低くして突進してきた。しかしそれは当たらない。

 僕は身を反転させて掴もうと伸ばされた手を受け流し、腰を捻り、顎に膝蹴りを入れた。鈍い音がした。

 仰け反るように後方に吹っ飛んだ。吸血鬼と言えども質量は人間の少年と対して変わらない。ましてや病弱そうな痩身だ。

 その隙に僕はクレイモアを回収し、吸血鬼に向き直った。

 顎を押さえてよろめきながら立ち上がり、憎悪に満ちた目で睨みつけた。同時に体に濃厚な殺気を纏う。

「痛いなぁ、もう」

 吸血鬼は再び姿勢を低くしてこちらに飛びかかる。同時にこちらも踏み出した。間合いを詰めて、クレイモアを振り下ろす。

 身を捩って軸をずらしてそれを躱す。その動きを想定していたので、僕は横を駆け抜けようとしたところを狙った。

 片方の足を軸にして体を捻り、もう一方の踵を吸血鬼の顔面に入れた。骨を砕く嫌な感触が足から伝わった。血が垂れて床を汚す。

 僕は追撃した。床を蹴って跳躍し、鼻を押さえて俯いている吸血鬼の頭に蹴りを入れる。──しかしそれは当たらなかった。

 避けられた挙句、足首を掴まれて投げ飛ばされたのだ。

 宙を舞った後に背中から床に叩きつけられ、肋骨が悲鳴をあげる。背中が燃えるように熱い。一拍置いて、後頭部もしたたか打った。視界が白黒に点滅する。

 続けて吸血鬼は僕の顔面に拳を落とそうと振り上げたので、僕はそれを横に転がって間一髪のところで回避した。

 拳が床に叩きつけられる。同時に元々脆くなっていた建物の床が崩れ落ちる。階層丸ごとまではいかないが、僕たちは揃って一階へと落ちていった。

 空中で体を捻って足から着地し、吸血鬼を見据えた。

「ねぇ、そろそろ死んでよ」

 この戦いにうんざりしているようで、僕を早く黙らせたい一心に声色は怒気を含んだものになっている。

「嫌だね。あいにく僕にはまだ生きる目的があるから死ねないな」

 そう言い切ると、吸血鬼は一瞬だけ僕に羨望の眼差しを向け、

「……いいな」

 と呟いた。

 その発言に呆然した。

「生きる目的があるのが羨ましいのか?」

 問いを投げかけた。それは純粋な疑問だった。生きる目的なんて僕だって一年前までなかったのだから。──平穏な日々を妹と送る──というのでも生きる目的になるのだろうか。

 吸血鬼は薄っすらと悲痛な顔色を見せてコクリと頷いた。

「生きる目的なんてない方がいいと僕は思うよ。何も考えずに限りある生を享受すればいいじゃないか。死ぬまで目的に捕らわれるなんて面白くないだろう?」

「……そっか」

 吸血鬼は異能を解除し、こちらに歩いてきた。先ほどまで纏っていた殺気も消えている。体が弱そうなこと以外はいたって普通の少年だ。

 僕は変わらずクレイモアを構えたまま吸血鬼を見据える。どのように行動するのか予想できないのだ。寄ってきてさも当然のように頭をもがれては堪ったものではない。

「僕は小さい頃から体が弱かったんだ。でもいつか治ると信じて治療していた。いくつもの薬を投与して、何度も手術をした。死にたいと願ったことも両手で数えられないぐらいあった」

 声を震わせながら語る。

「それでも僕はその苦痛に耐えたんだ。いつか体がよくなったら、お父さんとお母さんと一緒に……旅行に行こうって……」

「そうか」

 僕はただ愛想のない相槌を打つだけだ。憎き男の手下が目の前にいるのにもかかわらず。握っているクレイモアを横に振って首を切断するだけなのに、それができない。

「ある日僕は吸血鬼にされた。……あの男によって。体が順応してからの食欲を抑えきれずに、両親を食い殺してしまったんだ。……あの日、僕は生きる目的を失った。……そして君は生きる目的は必要ないと言った」

 目に大粒の涙を浮かべる。

「だから──」

 吸血鬼は僕の持っているクレイモアの剣先を持ち上げ、自身の首に宛てがって言った。瞳には決意が浮かんでいる。

「──僕を両親のところに連れていってほしい。あのときのことを謝りたいんだ。到底許されることではないし、死後の世界で会える確証もないけどさ」

 幸薄そうに笑った。

 僕は震える手にありったけの力と敬意を込めてクレイモアを横に動かした。分断された胴体の方が床に崩れ落ち、頭部が近くに転がった。

 頬を冷たいものが伝う。

 僕は泣いていた。

「一つお願いしてもいい?」

 首を切断されたことにより体が消えていくなか、口を開いた。声帯は切断したはずだが、どういうわけか声を発している。

「内容によるな」

 涙を拭い、平静を装う。

「あの男……レオンをどうか殺してください。レジスタンスのお姉さん、お願いします」

「ああ、僕に任せておけ。必ずアイツをこの手で殺してみせる」

 断言すると、吸血鬼が小指を立てて、

「約束」

 と消え入りそうな声で言った。僕はそれに応じて小指を絡める。

「君の言葉に救われた。ありがとう」

 そう言って少量の灰を残して彼の体は跡形もなく消え去った。


 


 

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