深淵の少女
高城ゆず
第1章
第1話 失われた日常
朝日が昇る。僕は顔を洗い、短く切られた黒髪の寝癖を直して部屋着を脱いだ。鏡に映るのは痩せこけた体に背中から太ももの広範囲にある酷く爛れた火傷の跡。
妹とお揃いのクリムゾンレッドのピアスを左耳に付けて家を出た。
血と硝煙と何かが腐ったような臭いが充満する薄暗いスラム街を歩く。薬を使用した頭のおかしい奴が奇声をあげている。売春宿からは嬌声が漏れ出し、身体欠損の見られる年端もいかない子どもは道端で物乞いをする。
僕はボロボロのノースリーブとサルエルパンツで腰に一本の刃物を携え、今日もゴミ箱を漁る。腐りかけたものでも気にせず胃袋に詰め込んだ。
ついでに通行人を襲い、持ち物を漁る。
こうして僕は腹を満たし、金を得る。
僕はこの日常に満足している……といっては語弊があるが、少なくとも不満はない。親にこそ捨てられはしたが、大切な妹が側にいる。
しかしそれは失われた。
「今日はそこそこ金が手に入った。今度、ヴィオラに新しい洋服を買ってあげよう」
僕は露店でいつもより少し豪華な食料を購入し、家に帰る。妹にゴミを食べさせるわけにはいかない。
辺りはすっかり暗く、月明かりを頼りに家への階段を登る。
トタンで仕切られた家の扉を開けようとした瞬間──名状しがたい不快な臭いが鼻を通り、肺へ取り込まれる。
死臭? 血液? 体液? 性欲?
色々な臭いが混ざっており、なんなのかは判別できない。
嫌な予感がする。
背後から冷たい手で心臓を握られるような感覚を味わう。指先の感覚が薄れ、心拍数が上がる。
意を決して扉を開けると──窓から射す月明かりに照らされた二人の人影を視認した。一人は人形のように白い肌のヴィオラ、もう一人は血の通っていないような肌に長身痩躯で白髪の若くて綺麗な顔立ちの男性だ。
そしてその二人は交わっていた。
ヴィオラは弱々しい声で、
「いや……いや……助けて……お姉ちゃん……いやだ……」
と言い、足をバタバタと動かしてわずかな抵抗をしていた。
ベッドのシーツには血液が付着している。それも二ヶ所。一つは下半身、もう一つは首元。
僕に気づいた男性がこちらを向いて不気味に口角を上げた。
「白化した君の妹はとても美味しい。それに……」
ヴィオラの妙に盛り上がった腹部を指でなぞり、
「……私との行為に耐えた」
と秘部から己のものを抜き取った。大きなものを引き抜かれたことにより、そこはぽっかりと穴が空き、大量の白濁液が溢れ出した。
ヴィオラは消え入りそうな声で、
「……お姉ちゃん……またね」
と言って指先をわずかに動かした。
僕の思考は停止した。愛する妹は見知らぬ男によって破瓜してしまった。僕はたった一人の家族も守れなかった。もっと早く帰ってくればよかった。そうしたら……僕が守れたのに……。
膝から崩れ落ちた僕を男性の虚ろな真紅の双眸が見据える。
着替えを済ませた男性はぐったりとしたヴィオラを軽々と片手で持ち上げ、
「ではそろそろ私はお暇しよう」
と口を開いた瞬間──僕は腰の刃物を手にし、二メートル近くある男性の首めがけて飛びかかった。渾身の力で地を蹴った。床が軋む。靴底に摩擦熱が発生する。
──無駄だった。
男性は侮蔑した目で刃物を粉々に破損させた。たった一本。人差し指で触れただけだというのに。
空中であっけにとられた僕の空いたみぞおちに蹴りを入れる。
部屋から吹っ飛んで外の共有スペースの転落防止柵に体を打ち付けた。金属の柵が僕の体の形にひしゃげる。
──こいつは人間じゃない。威力が桁違いだ。
「……妹……ヴィオラは渡さない」
小刻みに呼吸をする。それでも体が痛い。背中が熱を孕む。骨が折れているのかもしれない。だがそんなことはどうでもいい。
──この目の前の男を殺す。
すぐに部屋に戻り、家具の下に隠した拳銃をさらうように取り、即座に男性の眉間を狙って発砲した。一発の銃声と硝煙の臭いが空間に充満する。空薬莢が床に音を立てて落ちる。
少しの沈黙の後、
「……まったく……痛いじゃないか」
着弾した皮膚の周辺の血管が黒く浮き上がり弾丸が外へと押し出されていく。その弾丸を手に取ると、こちらに向けて指で弾いた。
それは僕のすぐ横の壁を貫通していった。
「君では私を殺せない。諦めて、今日は嫌な出来事があった、それで終わらせるべきなんだ。それともここで私に惨たらしく殺され──」
窓ガラスが割られ、人が飛び込んできた。
「死に去らせ! レオン!」
叫んで、どこかの組織の制服を身につけた少女が男性の頭めがけてレイピアを力の限り突き出した。
その刃も容易に指で砕かれた。その瞬間、男性の手は黒く変色し、液体になったかと思えば、それは形を変えて可愛らしさのかけらもない大きなパペットのような怪物になり、少女を食い殺した。
噛み切られた手足と血液がボドボドと床に落ちる。
手を元に戻し、ちぎれた手足を一瞥したあと、こちらを睨みつけた。
「さあ、どうする? 君はどうやって私を殺す? そんなオモチャでは私は死なない。抗ってもそこの死体の仲間になるだけだ。妹も返ってこないし、ただ無様に死ぬだけ……」
握りしめていた拳銃を床に落とし、両手をそっとあげて手のひらを見せた。
「──降参だ」
今の僕を支配しているのは憎悪ではなく恐怖だ。人知の及ばない存在を前にし、体が動かない。これを殺すだけの力も勇気も決意も持ち合わせてはいない。
僕が諦めると男性は満足げに、
「そう、それでいいんだ。君のような一般人は。それにしても随分と肝の座ったお嬢さんだ」
と言って僕の方へと近づいてくる。
蛇に睨まれたように足はすくんで動かず逃げられない。最後の足掻きで僕は睨みつけた。
「あと……君の妹はもうすぐ完全な吸血鬼になる。私の力でな」
言い終わると、僕の腹を先程より強い力で蹴られ、後方斜め上に吹っ飛ばされた。そして対面の建物の看板がつけてあった棒が腹部を貫通する。
「──痛い! 痛い痛い痛い痛い!」
蹴られた痛みなど忘れてしまうほどに痛む。心臓が脈を打つたびに激痛が走る。血液が噴き出す。
それでも僕は手を伸ばす。自力では動けないが、それでもヴィオラへと手を伸ばす。そこで気がついた。月明かりに照らされたヴィオラの顔──左目の下に[Da'at]という文字が見える。
男性は不敵に笑い、一度指を鳴らした。その姿は跡形もなく消え去った。
辺りに静寂が訪れる。
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