54_ふぅー

今日の凛果りんかさんは水色のロングスカートに白い七分丈のシャツを着ている。質の良さそうな服だ。言わずもがな似合っている。


「どうも凛(りん)華(か)さん。お久しぶりです。えっとこの状況はその決してあのその、誤解です」

「あらあらすっかり甘えちゃって」凛華さんは頬に手を添え微笑んだ。

「お母さん、今ね、お兄ちゃんがね、耳を」「お母さんも来たことだし俺はそろそろ帰るからな。晴人、それじゃあな」悪行がいつかばれるとしても、今は勘弁。現行犯逮捕は避けなければ。 

できれば後日、垣峰さんずてで間接的に伝えられたい。

「えーお兄ちゃん帰っちゃうの?」膝上の晴人が俺に寄りかかる。人間椅子とはこのことか。

「お母さんが来たからいいだろ? どいてくれ」

「私のことはお気になさらずに、もしご迷惑でなければもう少し一緒にいてくれませんか?」

 いや、気になりますよ。得てして保護者同伴は保護者以外喜びませんよ。

「おにいちゃん、サッカーの動画見せてー」

「晴人もこう言ってることですし」

母親が息子の味方に付くのは素晴らしいことだ。でも、今はそう思えない。打開策は頭を捻っても出てきそうにない。凛華さんは丸椅子を運び、窓際に座った。ベッドを挟み俺と正面から向き合う構図だ。

「分かりました。晴人、あと三十分だけだぞ。十六時四十分には帰るからな。だからベッドに戻ってくれ」最後の抵抗に帰宅時刻を宣言した。断固たる意志を伝えるため、明確な時間指定をし、時間厳守の意を強調した。

「やった! ロスタイムだー!」

「こら晴人、あんまり騒がないの」

喜びの声と共にベッドへダイブした晴人を母親がたしなめる。はーい、間延びした返事を晴人が返す。初めて見る親子の一コマ。そこに俺がお邪魔してもいいのか。



「あんな遠くから決めるんだもん。ライコはフリーキック上手すぎ」

「そうなのか。この選手はライコっていうのか」

 目が合わない様に晴人の母親をちらりと見る。穏やかな表情でこちらを見ている。温かい目とはあのことを言うのだろう。

 良い子の晴人には見せてはいけない履歴とショートカットアイコンを削除し、サッカー動画が見たいという晴人の要望に応えた。晴人は両手でスマホを持ち画面に釘付け。俺は脇から画面をのぞき込んでいる。再生しているのは動画サイトにアップされていた海外リーグのゴールシーン集だ。このサイトではムフフな動画は見ていないので、オススメ動画にピンクな映像が並ぶ心配はない。

「うわー今のボレーカッコイイ! お兄ちゃん、巻き戻すのはどうやるの?」

「それはだな、こう画面の左側を二回タッチすればいい。やってみ」

 晴人が画面を二回触ると、画面がラストパスを出す瞬間まで巻き戻る。左サイドから上げられたクロスに赤髪の選手が左足で合わせた。

「ホントだ! ありがとうおにいちゃん」

 晴人はその後何回も動画を巻き戻し、ゴールシーンをリピートさせた。

 刹那、母親をチラ見する。

よかった、さっきと同じ表情だ。まだヘマはしていないらしい。一挙手一投足に気を遣う。

友達の家で夕食を囲う時の緊張感だ。味などはろくすっぽ分からず、自宅では五回噛んで飲み込む白米も行儀よくせねばの世間体から三十回噛んで飲み込み、豚汁をご飯に掛けたい衝動を抑え、食卓からの解放を渇望する。

枕元の時計を見る、まだ十分も経過していない。

「おにいちゃん別の動画も見せて。次はドリブルがいい」

「はいはい。待ってろよ」

晴人からスマホを手渡される。まずは全画面表示を解除し「サッカー ドリブル」とサイト内検索をかけた。検索結果が一瞬で表示される。「スーパーゴール集」とシンプルなタイトルのものもあれば「神業! 凄技! ハイパーゴール集!」とサムネイルを色文字でこてこてに装飾した動画もある。アメリカのケーキを思い起させる。後者の動画を除いた中から一番再生数の多い動画を選択。スマホを晴人に返す。ありがとう、と晴人はお礼を述べ、動画にかじりついた。ここまで凛華さんは会話に参加していない。温かい視線を送るのみだ。

 何か話を振るべきなのか、親睦を深めるべきなのか。もしかして、ずっと黙っているのは俺を試しているからじゃないのか。どこまで人に気を遣えるか、晴人に悪影響を及ぼすかどうか。

手持ち無沙汰の時間が重くのしかかる。

 よし、話しかけよう。相手は大人だ、人妻だ。常識的な反応をしてくれるはずだ。

 凛華さんへ視線を向ける。チラリではなく、じっと逸らさずに。俺の熱視線に気づいた凛華さんと目が合う。度胸の使いどころだ。

「それにしてもあれですね。晴人君はサッカーがとても好きなんですね。今日も十四時からの試合を一緒にみたんですよ。凛華さんは見ましたか? 面白い試合でしたよ。逆転のシーンは皆でハイタッチをしちゃいましたよ。な、晴人」完全に平常心を失い、カッコ悪いことに晴人に逃げてしまった。「うん、そうだよ」と晴人はスマホから目を離さない。

「そうだったんですね。晴人の趣味に付き合ってくれてありがとうございます。その時間はまだ仕事中だったので試合は見れませんでした」

「そうだったんですね。お仕事お疲れ様です」この下手くそ。自分に憤りながら頭を下げた。

「ありがとうございます。高柴さんは大学の帰りですか?」

「はい、今日は午前中に講義があったので、帰りに寄らせていただきました」

嘘だ。今日は元々講義など入っていない。晴人に会うためにやって来た。ただ、馬鹿正直に答えたら相手に負い目を与えてしまう。

「土曜日も勉学に励むなんて高柴さんは真面目なんですね。でも、息抜きもしなくちゃダメですよ?」凛華さんは心配そうに眉尻を下げた。

「はい、でも暇な日の方が多いんで大丈夫ですよ」

「お暇な時は何をしているんですか?」

「そうですねぇー」なるほど。そうきますか。目線を上げ、方針を練る。

正直に答えるはない。実は作詞をしたり小説を書いたりしてるんですよ。特に最近は小説に夢中で、王道から一本横に入った裏路地みたいなお話を書いてます。とてもとても晴人君には読ませられません。それか友達と秋葉原でエロ巡りしてます、とはとても言えない。芳川を人質に取られても真実は言えない。

「映画とか読書ですね。インドアの趣味です」今度は自分のための嘘だ。

「素敵な趣味ですね。私も常に一冊小説を鞄(かばん)に入れてます。ところでプロレスとかは見たりしませんか?」ウエスタンラリアットみたいに豪快にねじ込んできたよこの人。

「プロレスは深夜の番組を録画するくらいですかね」はぐらかすつもりだったがこれ以上嘘を重ねたくなかったので正直に述べる。「ほんの少しですけど」

「高柴くんも世界プロレスみてるの?! 私も見てるのよ! 誰? 好きなレスラーは誰?」

 凛華さんのギアが二段階上がった。危うく振り落とされるところだった。

「えっと、ミスターミソギです」

「あー! ミソギねいいわよね、滅多にメインイベントには抜擢(ばってき)されないけど客席を必ず温める頼れる切り込み隊長ね。覆面レスラー『ジョケータ』の中の人とも噂されているけど、噂は噂。中の人なんていないわよね」凛華さんは雪崩のように捲し立てた。そしてキラキラとした瞳であの質問を待っている。こんにちはに対するこんにちは、ありがとうに対するどういたしまして、二つでワンセットのやりとり。質問されたら同じ質問を返すのが会話の作法だ。

「凛華さんは誰が好きですか?」

空腹のピラニアより速く、凛華さんはネタに食らいついた。

「私は長本! 高柴くんも名前は聞いたことあるかしら。第一次プロレスブームの立役者でやる試合やる試合全部名勝負でレジェンドと呼ぶにふさわしき存在! 特に因縁のライバル矢野との金網デスマッチは世紀の一戦よ! 小さいときにテレビで試合を見てそれ以来ずっとファンなの。そうそう矢野っていうのは長本と同期で「おにいちゃん次の動画見せて次はフリーキックがいい」  

晴人がプロレス狂の言葉を遮った。


ここだ。


俺はスマホを受け取り、プロレス談義が蘇生する前に動画の検索に入る。「晴人はサッカー大好きだな。飽きないのか?」とついでに新しく話題を振り、プロレストークにとどめを刺す。

「全然飽きないよ! 一日でも見てられる」

「この子は父親の影響か昔からサッカーが好きなんですよ。将来の夢もサッカー選手だもんねー」その言葉に俺は動揺していた。

将来の夢? 今、将来の夢って言ったか? 

「おかあさん! 恥ずかしいから内緒にしてって言ってるじゃん!」

「はいはい、ごめんなさい」晴人は凛華さんにしかめっつらを向けている。

晴人と出会ってからそれなりに経つが、夢の話なんて聞いたことがない。まさか夢を持つ人がこんな近くにいたとは。しかもそれが晴人だったとは。

「晴人はサッカー選手になりたかったのか」

「うん。内緒にしてたけどそうなの。おにいちゃん、笑う?」そんな弱気な顔するな。

「笑わないよ」晴人の頭に右手を置く。夢を語る怖さも夢を隠すもどかしさも知ってるからな。

「よかったー。でも誰にも言わないでね。垣峰さんにも内緒だよ」

「安心しろ誰にも言わん。男と男の約束だ」

頭から離した右手で拳を作り、晴人の前に出す。それを見て、晴人はこれから何をすべきか瞬時に理解した。右手で拳をにぎり腕を伸ばす。大小の拳が音もなくぶつかる。互いに軽い笑みを浮かべた。

「私も混ざっていいかしら? 」

見ると長本ファンの女性が百合華のような握りこぶしを作っていた。あの手で握られたおむすびはきっとキラキラと光輝くに違いない。そして一口食べればたちまち深い愛情につつまれ涙する。その涙の塩加減がまたおむすびに丁度いい。田舎の田んぼっ原が目に浮かぶ。みんな元気にしてるかな。

「是非どうぞ。 こういうのは人数が多い方が良いですから。な、晴人」

「おかあさんはダメ! これは男と男の約束なの! 男じゃなきゃダメ!」

パワハラセクハラモラハラの敗訴セットが晴人の口から飛び出した。親子じゃなければ晴人の社会的地位は早くも喪失しただろう。

「晴人、酷いわ」凛華さんは両手を目に当て、古典的な泣き真似をした。晴人が母親から俺へ顔を向け直す。悩むように沈黙した後、口を開いた。

「さっきおにいちゃんは、誰にも言わないって約束したでしょ」

「おう、したな」晴人の夢は他言無用。しっかり覚えている。

「でね、おにいちゃんばっかり約束するのはふこーへーだから、僕も約束する」

「約束? 何をだ?」

「うんと、それはね」晴人はスマホをベッドに置き、俺の正面に座り直す。そして

「病気を早く治してサッカー選手になるって約束!」晴人は大きな笑顔だった。

早く治して、か。

もしかしたら全部俺の取り越し苦労かもしれないな。

「よし、じゃあもう一回男と男の約束だ」

「うん!」

「私も混ぜてくださいー」華奢で白い拳が加わり、男と男と女の約束が交わされた。つまり、普通の約束である。


「男と男の約束、今日は良いことを教えてもらったわね。今度お父さんが来たらやってあげなさい」

「うん! あとね、他にも教えてもらったんだよ!」

他に? あぁ、あれか。動画の巻き戻し方か。

「あらそうなの? お母さんにも教えてくれる?」予(あらかじ)め、スマホの準備しとくか。

「うんわかった」晴人はベッドからおり、母親の背後に回ると


ふぅー 


はんっ 

母親の右耳に息を吹きかけた。小学生の吸収力を舐めていた。


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